2026年4月19日 「わたしは羊の門である」 ヨハネ10:7-18

与えられたテキストはヨハネ福音書10:7-18です。詩人の吉野弘の詩に、「I was born」という作品があります。一人の少年が父親と寺の境内を散歩しています。彼の母親は彼を出産して、間もなく亡くなりました。すると、向こうから身重の女の人が歩いてきます。少年は恥ずかしさを忘れて、その身重の女に人を見つめています。身重の母親が通り過ぎた。その時、少年は「生まれる」ということが、「受け身」であることを理解する。少年は少し興奮して父親に、「やっぱりI was bornなんだね」と、話しかけます。父親は怪訝な顔をして少年の顔を覗き込みます。少年は「I was bornさ。受身形だよ。正しく言えば人間は生まれさせられたのだ。自分の意志ではないんだね」と繰り返しました。父親は随分に大人になった少年の成長に驚く、そういう詩で。少年の改心物語です。吉野弘さんは、少年を英語の学び始めの中学生にしていますが、「生かされている」という事実を理解するのは、そう簡単なことではない、自明なことではないと訴えています。

牧師であった榎本保朗先生は、自分は少年時代一人で大きくなってきたと思っていた。しかし、年を取って、子どもを育てたり、いろいろな経験をすると、自分が生かされているということが理解できるようになった。信仰を持つと、「神のめぐみによって今日のわたしがあるのです」と言うパウロの言葉が理解できるようになった、と述べている(コリントⅠ15;10)。生きているのは、神のお陰だ、生きる根拠が自分にあるのではなく、主イエスご自身にあるという事実を受け入れるようになった、主イエスの言葉は、目に見ない事実を伝えようとしていると言っています。

マタイ10:7-11に「イエスはまた言われた。『はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」とあります。少し細かいことになりますが、本来は「わたしが」です。「わたしが羊の門である」「わたしが良い羊飼いである」となります。主イエスご自身が命を懸けて名乗り出た、主イエスのわたしたちに対する強くて篤い思いを伝えています。

ヨハネ福音書15::16に、「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選んだ。あなたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、」とあります、全ての事に先立つ主イエスの招き、選びを記しています。主イエスの選びの事実を明らかにしています。マルコ福音書は「これと思う人々を呼び寄せられた」と言っています。マルコ3:13には、「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せると、彼らはそばに集まって来た。」とあります。人からどんなに批判されたとしても、また、自分は駄目だと失望落胆しても、神が「これはと心に留めてくれて、招いてくださった」と言うのです。

:16に「わたしには、この囲いに入っていない他の羊もいる。この羊を導かなければならない」とあります。囲いの外にいるのは異邦人のことです。その囲いの外いる異邦人を導かなければならないと言うのです。この「ねばならない」は、「必ず」を意味します。主イエスが十字架を予告して、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と告白しました。その「必ず多くの苦しめを受け、必ず排斥され、必ず殺され、必ず復活する」の「必ず」です。神の定めを意味します。主イエスが、羊飼いになってくださることは、神が定めです。偶然でも、運命でもない、神がそのように決めて、導いてくださる。神の御心における「定め」です。神の定めは、自由の中から選ぶことです。あのエデンの園のアダムに、善悪を知る木の実を食べる自由も、食べない自由も与えられていたように、自由の中から、主イエスは自分の命を捧げる道を選ばれました。囲いの外にいるわたしたを導くために、愛の故に、自発的にご自分の命を捧げてくださったのです。

:17「わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえに、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることができる」とあります。この「できる」ですが、原文には、この「できる」と訳す事が出来る言葉がないのです。「できる」、英語でI can ですが、どの英語訳を見てもI canはありません。I have power、 I have authority、「力」「自由」「権威」となっています。「これは、わたしが父から受けた掟である」の「掟」も、力、自由、権威を意味します。主イエスの権威・力です。主イエスの自由から、私たちを愛するが故に、命を捧げてくださったのです。そのお陰でわたしたちは,こうして在ることができるのです。主イエスはローマ兵士に捕えられます。その時、主イエスは、『だれを捜しているにか』と、言って自分から名乗り出ています。主イエスが、『わたしである』と名乗り出ると、ローマの兵士たちは仰向けに倒れました。主イエスの信仰と気迫を感じます。主イエスは積極的に十字架を背負い背負わされたではありません。

遠藤周作の「沈黙」や「イエスの生涯」の中に描くイエスは全く無力なイエスです。何も出来なかったイエスです。イエスは、無力で、弱い、無力のまま、十字架に付けられました。それは、無力なわたしたちと同じになってくださるためだ、と言います。しかし、テキストの伝える主イエスは違います。主イエスは、真の権威を、自分の命を捨てる気迫、覚悟、命を再び得る権威と力を持っています。犯罪人の一人として死ぬ自由を持っています。だから、わたしたちの救いになることができるのです。その意味では無力なイエスではなく、力溢れる主です。だからこそ自由にへりくだることができたのです。力溢れた主イエスが、

:10「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」とあります。羊であるわたしたちが命を得る、それも豊かに得るためです。パウロは「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」と言います。わたしたちが豊かな人生を、輝いた日々を歩むように、主イエスは貧しくなられた。その信仰的事実を思い起こし、主イエスに感謝したいと思います