2026年5月3日「イエスの信仰と希望」ヨハネ13:31-35

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与えられた御言葉は、イエスが十字架の死の前に、弟子たちと共に食事を取り、弟子たちの足を洗われた後、語られたテキストです。;31に「さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。『今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。』」とあります。イエスに神の栄光、誉、名誉が与えられると語っています。しかし、その神の栄光を受けるのは、ユダの裏切りで始まる十字架の苦難と死を負って、と言うのです。つまり、主イエスの十字架の苦難と死こそ栄光であると言うのです。人間的に、常識的に考えれば、十字架は罪と恥じで、誰からも評価されない罪です。しかし、ヨハネ福音書は違います。苦難と死が栄光と勝利と言うのです。栄光は、ギリシャ語で「ドクサ」と言い、パラドックスの原語で、「逆説、矛盾」という意味です。言い換えると、苦難は神の栄光に与るための苦難です。アブラハムは故郷のハランを捨てて出立しました。その時のことを、創世記12;1「時に主はアブラムに言われた。『あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい』」とあります。この「時」は、アブラハムの父が亡くなった時、つまり、人間にとって最も悲しい親との死別を意味します。アブラハムは父を失った悲しみと苦しみとの中で、「あなたは祝福の基となるであろう」という神の言葉を聞きました。その苦しみに出遭った経験が、逆説的ですが、立ち上がり、新しい祝福を目指して、その地、ウルを出っ立つができた。そして、栄光を受けたというのです。逆説ですが、苦難を経ての栄光です。ヨブ記のエリフが苦難の中にいるヨブを尋ねます。エリフは「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」と、苦難の積極的な意味、神は苦しみによって人を救う、逆境によって人の耳を開かれると言います。福音書ヨハネは、主イエスの受難を「栄光」と断言し、主イエスは苦難の意味を明確されたと言うのです。

:34「わたしは、あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」とあります。この「わたしが愛したように」は、二つの意味があると思います。一つは、主イエスを模範・手本とすることです。もう一つは、愛することができる力、根拠です。この「ように」は、「as、カソース」で、「同じ様に」という意味があります。主イエスは、:13-17節で、弟子たちの足を洗われました。弟子たちは、それだけはやめて欲しいと断ります。しかし、主イエスは。今洗わなければ、わたしとの関係がなくなると言われ、上着を脱ぎ、身を屈め、腰に手ぬぐいを巻いて、弟子たちの汚れた足を洗われました。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに洗い合わなければならない。わたしがした通りに、あなたがたもするように模範を示したのである、と言われました。また、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスに見られるものです」とあります。主イエスを模範にして、互いに愛し合いなさい、と言うのです。この「ように」はギリシャ語「カソース」と言い、「~の故に、~であるからには」という意味があります。「主イエスがわたしたちを愛してくださったが故に」、「わたしがあなたがたを愛したからには」となります。互いに愛し合える根拠・力を意味します。「主は、わたしたちのためにいのちを捨ててくださった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それ故に、わたしたちもまた、兄弟のために命を捨てるべきである」と言います。主イエスがわたしのために命を捨てて愛してくださった。赦して下さっている。その主イエスの愛に応える、導かれる。そのような仕方で、互いに愛し合う、と言うのです。

ルカ福音書の中に、主イエスは、十字架を前に、一人の女の人が自分に高価な香油を注いでくれた。それを見ていたファリサイ派の人々は、「この女がどんなに罪深い人であるかが分かっているのか」と責め立てました。すると、主イエスは、「この人は、多くの罪を赦されている。それは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」と言っています。「神に愛され、赦される」ことと「人を愛する」ことには深い関係がある。その主イエスの赦し、愛の上に、この戒め、互いに愛し合うことは出来事となる。愛は至って信仰の問題だと言うのです。

広島の原爆資料館に、マザー・テレサが、1984年に訪問したことを記念してマザー・テレサの言葉が掲げられています。「広島に多大の苦痛をもたらした恐るべき罪悪が、二度と起こらないよう、互いに祈り、愛と祈りの行為が平和の行為であることを忘れないようにしましょう」という文章です。しかし、彼女の英文には「神がわたしたちひとり一人を愛したように、互いに愛し合いましょう。そうすれば、その結果、広島に多大の苦痛をもたらした恐るべき罪悪は再び起こらない」となっています。記念館の誰かが、恣意的と思われますが、テレサの精神的基盤をなしている聖書の言葉(let us love one another as God love each of us)を訳していないのです。主イエスがあなたがたを愛したが故に、という言葉を無くせば、単なる道徳・倫理的な教えなってしまいます。主イエスの言葉は、単なる道徳訓ではりません。信仰です。希望です。救いです。

わたしたちは伝道ということを考えています。ヒエロニムスという聖書学者は、:35「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、知るようになる」と言う言葉を引用して、この「互いに愛し合いなさい」という戒めが、教会の中で本当に生きている。世の人が、その教会の姿を見て、互いに愛する愛がある。キリストの弟子たちだ、と認めることこそ伝道だ、と言うのです。教会の中に、このいましめが真実生きて働いていれば、それでことは足れる、と言っています。

しかし、現実は難しいことです。互いに愛し合うことは、人間の力ではできないことです。しかし、キリストの愛に触れた時に、できないことができるようになる。「人にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからである」と言う言葉がありますが、神の可能性を信じていく、その可能性を信じる信仰を持ちたいと思います。