与えられたテキストは使徒言行録4:23-31です。キリストの弟子のペトロとヨハネらは、キリストの名で病人を癒し、神の言葉を語り続けたために、ローマとユダヤ当局は彼らを逮捕し、厳しい処罰を与えようとしました。しかし、彼らはキリストの復活で起こったことを止めず、語り、病人をいやしました。ユダヤとローマ当局は、政情が不安定になることを恐れ、ペトロとヨハネを逮捕し、取調べ、議会の前で証言させ、「二度とキリストの名によって活動してはならない」と二人に言い渡し、釈放しましました。:17「このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によって広まらないように、『今後あの名によってだれにも話すな』と脅しておこう。そして、二人を呼び戻し、決してイエスの名によって、話したり、教えたりしないように命令した。」とあります。福音を伝道してはならない。もし伝道するならば、命の保証はないと脅迫しました。当局の脅迫ほど恐ろしいものはありません。それも個人的な脅迫ではなく、国家による脅迫です。ペトロとヨハネは恐怖のパニックに陥りました。そのパニックの中で、;19「ペトロとヨハネは答えた。『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないはではいられないのです。』と証言しています。彼らは、「わたしたちの主・キリストは、ヘロデとポンテオ・ピィラトの策謀から、イスラエルの民や異邦人から憎まれ、十字架につけられ、処刑されました。それは、コリント第一2;7に「神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前に定めておかれたものです。」とあるように、神が定めていたことが実行されたことであると信じており、また、キリストの十字架に神の御手、御心が働いたと信じています。そして、今の祈りは、神はわたしたちの脅迫を心に留めてくださいますから、何も恐れず、大胆に御言葉を語るようにしてください、ペトロやヨハネを苦しめ、恐怖に陥れ、脅している脅迫が神の意志によるものだ、と受け入れることができるようにしてください、という祈りになります。キリストのために働いてきたのに、脅迫という恐ろしい目に遭わされています。しかし、その中に神の意志があることを信じさせてください、自分たちにとって良いと思えることだけでなく、いや、むしろ悪いと思えること、恐ろしいと思えることも、神によって定められていることだと信じることができるようにという祈りです。
:31「祈りが終わると、一同の集まっている場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した」とあります。「大胆に」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「パレーシア」と言い、「確信する、自己が変えられる、自己変革」を意味します。「伝道することは当局に捕えられ、激しい取調べ、厳しい拷問を受けました。その恐れに打ち勝って、伝道に立ち上がることができる自己変革を意味します。
ペトロもヨハネも「無学で普通の人、ただ人」と記されています。律法についての特別な教育を受けていない、本当に凡人でありました。しかし、伝道、信仰、教会では、神のアイロニー(反語、皮肉)とでも言いましょうか。無学な人が用いられるのです。「知恵ある者、力ある者に恥をかかせるために、世の無学な者を敢えて選ばれた」と言います。何も恐れない。自己変革して御言葉を語る者に変えられるのです。不思議なことですが、彼らは、ユダヤ当局の激しい脅迫にも拘わらず、大胆に何も恐れず、はばかることなく、キリストのことを伝え、キリストの名において人を癒し、奉仕の業を行いました。それを可能にしたのは、イエスを信じる信仰です。ユダヤ当局の脅し、迫害の背後にも、神の恵みが隠されていると信じる信仰が、彼らをして自己変革させるのでした。恐ろしいこと、嫌なこと、辛いこと、それらすべてが神の御手の内にあるという信仰です。
ヨセフ物語のヨセフですが、彼は兄弟たちの恨みを受け、エジプトの奴隷に売られ、苦難の人生を送ります。後に、彼をエジプトの奴隷に売り渡した兄弟たちと再会します。その時、ヨセフは「あなたがたは、ここにわたしを売ったことを嘆くことも、悔やむこともいりません。神は命を救うために、あなたがたより先にわたしを遣わされたのです。それ故にわたしをここに遣わしたのはあなたがたではなく、神です」(創世記45章)と証言する言葉があります。エジプトに奴隷に売られ、虐待を受け、ひどい仕打ちを受けた。しかし、それは兄弟のせいでもなければ、誰の罪でもない。神が遣わしたというのです。ヨセフの一連の事柄の中、背後に神の支配があるという信仰を言い表わしています。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているからできたたのではないことが分るのです。」(ヘブライ11;3)という信仰に立つことができる時に、自己変革が起こると言うのです。
親しくして頂いた牧師ですが、彼は若くしてガンで亡くなりました。亡くなられる前に、一時自宅で療養されていましたが、再入院しなければならなくなった夜、彼は祈りました。「神さま、出来ることでしたら、再びこのわたしをこの教会に戻してください、もう一度皆と一緒に働けるようにしてください。しかし、あなたの御心のままになさってください。これからまたわたしは、病院に戻りますけれども、これもあなたの与えてくださった時として、日常知ることのできないあなたの御心を知る機会とさせてください。良いと思われることも、悪いと思われることも、すべてあなたの手のうちにあると信じます。」と祈られました。今日の弟子たちの祈りと同じです。彼の祈りは、家族を、教会員の心動かし、生きる希望を与えました。
ぺトロとヨハネの報告を聞いた人々は、この厳しい時を神の恵みの時として捉えることが出来るようにと祈りました。すると、一同のいた場所が揺れ動いたと言うのです。人間の目で見て非常に厳しい状況の中に、神が良いとされる何かが隠されている。神の愛と恵みがあると信じる。その信仰は、世の力に押しつぶされそうな小さな存在であった弟子たちに、その状況を踏み越えさせる不思議な力を与えました。その人を、その存在の根底から揺り動かし、大胆に御言葉を語る存在に変えてくれるのです。