与えられたテキストはマタイ12:38-42です。イエスのメシア性をめぐってイエスとファリサイ派、律法学者たちとの間で起こった論争です。「あなたがメシアなら、誰もが認める客観的な真理を示せ」と、主イエスに迫ります。それに対して、主イエスは、いつものように、直接的に問いに答えないで、「あなたがたはよこしまで、神に背いている」と言っています。先ず、イエスは彼らに直接的証拠を示さないで、彼らが自らに問い、己吟味させようとしています。「よこしま」は、「澄んでいない、濁っている」という意味です。「背いている」は「姦淫する」という意味です。言い換えれば、「神以外のものを神としている、律法違反である」と言うのです。「あなたがたの目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、体も暗い」と言います。「濁っている」は「澄んでいる」の反意語です。ファリサイ派の人々は、目が澄んでいない、濁っている。そのため真理を見ることができない。彼らの目が濁らしているのは、誤った誇り、傲慢な心であると言う。彼らはエルサレムから来た律法学者で、高学歴であり律法の知識も経験も豊富で、神に選ばれているという特権意識を持っていました。その過剰な自意識、豊富な知識が、彼らを誇らせ、傲慢にした。彼らの問題は、傲慢、悔い改めることのない頑なさからの解放、救いで
主イエスは、まずファリサイ派の人々の「メシアとしての証拠を示せ」という要求に対する応対でした。ここでも、直接関係のないような見える二つ物語を話されます。一つは「ヨナ物語」です。ヨナは、神からアッシリアの古代都市ニネベに対して、悔い改めを語るように命じられました。しかし、ヨナは不信仰なニネベを恐れ、舟に乗り、逃げ出しました。敗走の途中嵐に遭い、遭難します。ヨナは嵐を鎮めるために海に投げ込まれます。海に投げ込まれたヨナは、大きな魚にのみ込まれ、魚の腹に閉じ込められ、三日目に吐きだされます。打ち上げられた場所が、ヨナが恐れ、嫌ったニネベの海岸でした。不思議なことですが、ヨナは、語ることを恐れたニネベの人々に悔い改めの言葉を語り、ニネベは、ヨナの語る言葉を聞いて、悔い改めたというのです。イエスは、ヨナの物語を引用して、頑ななニネベの人々が悔い改めたのに、あなたがたは、わたしの言葉を自分の事柄と受け入れようとしない、悔い改めもしない、それが本質的なもんだ出あると言うのです。
「南の国の女王」の譬えも同じ意味です。列王紀のソロモン物語の中に出てくる「シェバの女王」です。女王はエルサレムから遠く離れたシェバ(今のイエメン)から、ソロモンの名声を聞き、難問を持って、はるばるエルサレにやって来ました。女王はソロモンの知恵を聞き、驚き恐れ、謙遜の思いを抱いたという物語です。
シェバの女王も、ニネベも異邦人です。しかし、彼らの目は澄んでいて、膝を屈め、へりくだる思い持ち、謙遜である。彼らは自分の穢れを知り、その穢れを清める力は自分にない事実を認め受け入れたというのです。
しかし、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、自分には罪があるという事実、自分が相対的な存在であることを認めることができず、自分の価値観や考えを絶対化し、いつも人を裁いている。重い皮膚病の人々や徴税人や、律法を持たない異法人を穢れている、罪人だと軽蔑し差別した。自己を絶対化し、自分を変えようとしなj。悔い改め、自ら膝を屈めることをしない。謙遜になれないのです。主イエスは、ファリサイ派の人々や律法学者の濁ったまなざしを澄んだまなざしにしようとされたのです。
「大草原の小さな家」というドラマがありました。インガルス一家がさまざまな苦難・試練に襲われ、苦しみ悩みますが、最後は、それらを乗り越え、打ち勝ち、パッピー・エンドで終わる。彼らが出会う苦難・試練が他人ごとではなく、自分と重なるのです。そして、最後は苦難・試練を乗り越える希望が与えられる。インガルス一家の長女メアリーが頼まれて、ある小さな村の学校の先生になります。そこに意地悪な一人の婦人が現れ、村人を動かしていやがらせをし、いじめます。メアリーは、いじめに耐えかねて泣き崩れます。母親は聖書の言葉を読んで聞かせ、励まします。メアリーは立ち上がります。しかし、その立ち上がり方ですが、「よし、わたしは闘う。わたしをひどい目に遭わせたあの人を、そのままにしておかない」と、意地悪な婦人を打ち負かすという仕方ではないのです。水戸黄門では、勧善懲悪的に、正義が悪を打ち倒してしまいます。メアリーが如何に正しく、意地悪な婦人が誤っていたかを明らかにする機会が来ました。しかし、メアリーはそうしませんでした。「わたしは、神様の御心が何であるかということを聖書に問いました。そして、神が望んでおられるのは何かを知った」と言うのです。自分が罪を犯す人間だということを認識します。自己を絶対化するのではなく、相対化し、神に許しを求め、謙遜になって、婦人の前に立ち、赦していこうとするのでした。聖書信仰の「悔い改め、謙遜」が描かれています。
「悔い改め・メタノイア」は方向転換をするという意味です。神の方を向くのです。神の光に照らされるのです。その時に、今まで見えていなかったものが見える。神の方に向きを変え、神の光に照らされなかったら、自分の罪、思いあがり、醜さは見えてこないのです。ファリサイ派の人々が悔い改めることができなかったのは、彼らが罪人・悪人だからではありません。立派で、誰よりも正しいと思っていたからです。:43以下の「穢れた霊が自分の住みかを奇麗に掃除をし、完全に整理したように、立派過ぎ、完全過ぎたのです。誰にも負けない誇りがありました。弱かったのではなく、強かったのです。そのために救い主イエスが見えませんでした。
星野富弘さんの詩画集の中に、「わたしは傷を持っている。でも、その傷のところから、あなたのやさしさがしみてくる」という詩があります。人の心の砕かれたところから、神の赦しの光は沁みこんでくる。破れに気付き、悩み、苦しみ、悲しむ。しかし、そこで人は神に出会う。ところ、ファリサイ派の人々は、神の憐れみが沁み込んでくる破れに気付かないのです。
パウロは「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言います。「弱さ(ア・否定とセノス・強い)」は、無力、貧しい、病気を意味します。誰にもある弱さ、悩みです。トラウマです。しかし、イエスの信仰によって弱さは重荷にならないで、むしろ、恵みに変える。「キリストの力は弱さの中でこそ力を発揮される。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ喜んで弱さを誇ろう」と言います(コリント第Ⅱ12:9)。イエスはどんなに深い悲しみでもそれに打ち勝つ方法と力を与えてくださいます。