与えられたテキストは列王記上17:1-7の預言者エリヤ物語です。エリヤが活動した時代のイスラエルは南北に分裂していました。イスラエルは、ソロモン王の死没後、「南ユダ王国」と「北イスラエル王国」に分裂しました。エリヤは、ギレアドのティシュベルの出身ですから、北イスラエル王国のヨルダン川沿いの寒村の出身と思われます。活躍した時代はアハブ王時代で、首都は、南ユダのエルサレムに対抗して建設されたサマリアです。アハブ王は山を強制的没収し、山頂にバアルの神殿と遊興施設を建設し、多額の富を獲得しました。アハブ王はフェニキアの王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、フェニキアと交易を行い、繁栄をもたらしました。フェニキアとの関係は、同盟を締結しているほど、同心一体、同信条と言っています。フェニキアはバアルの神を熱心に信じていました。フェニキアのバアル神信仰はアハブ王朝の隆盛と衰退と崩壊の要因になったと思います。どの時代もそうですが、物質的な繁栄の背後、必ず負の部分があります。イゼベルによってフェニキアの神であるバアルの神宗教が北イスラエルに入ってきました。アハブ王は、バアルの神宗教に傾き、サマリアの山にバアル神殿を建設し、バアル宗教を公認しました。「バアル」は、セム語では「所有者、オーナー、夫」を意味し、バアルは土地の所有者で、穀物の豊穣をもたらします。女神のアシュラとバアルとを同時に祀ると、商売を繁盛させ、ご利益をもたらすと信じていました。
アハブ王は目に見える物質的豊かさを求め、権力を維持しようと、ファニキアのイゼベルが持ち込んだバアルの神を利用しました。民衆も目に見える利益を求め、バアル宗教を受け入れました。サマリア山の山頂はいつも賑わっていました。バアルの神殿と遊興施設があったからです。礼拝や信仰を求めてではありません。宗教と言いながら、そこで行われていたことは、金儲けと遊興でした。その結果、心の荒廃、疲弊が起こりました。義しい者を金で買収し、貧しい者を靴一足の値で売る。強い者が弱い者を踏みつけ、弱い者の生きる権利を奪うという不正と不義が行われていました。
列王記上17章には、預言者エリヤが世の中で信仰と正義と公平と神の愛と裁きを訴える姿が記されています。;4節に「そしてその川の水を飲みなさい。わたしはカラスに命じて、そこであなたを養わせよう。』エリヤは行って、主の言葉のとおりにした。すなわち行って、ヨルダンの東にあるケリテ川のほとりに住んだ。すると、カラスが朝ごとにパンと肉を運び、また夕ごとにパンと肉を運んできた。そして彼はその川の水を飲んだ。しかし国に雨がなかったので,しばらくしてその川はかれた。」とあります。川がかれたのは、雨が降らなかったからだ」と言っていますが、この「かれる」は「心の涸れ、渇き」を意味します。川の水ではなく、神の言葉の涸れ、渇きです。アモス8:11には「主なる神は言われる、『見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。』」とあります。アモスは、飢饉と渇きが来るが、しかし、その飢饉と渇きは、パンに飢えることでも、水に渇くことでもない、主の言葉を聞くことのできない渇きと饉飢であると言っています。この「涸れる」は、主なる神に従う信仰の渇き,涸れです。愛と正義、優しさの涸れを意味します。
アハブ王から迫害を受ける預言者エリヤが、「イスラエルの神、ヤッハウェの神の怒りを招くことを行った」と身の危険を感じる程、厳しく神の裁きを告げます。すると、主なる神は、エリヤに「ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ」と告げます。アハブ王の追跡を逃れて、避難しなさい」と命じました。エリヤは三年間、身を隠していました。その3年間はエリヤにとって、大事な、より本質的信仰を学びの時であったと言っています。エリヤは「わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる」と主の言葉を聞きました。エリヤはこれからどうなるかと恐れ、思い煩いました。すると、神は「わたしが烏に命じて、そこであなたを養う」と言われるのです。エリヤは現実にあるだろうかと疑いました。信じられません。ある人たちはこの「烏」は、原語で「オレブ」と言います。その綴りは「アラブに似ていますから、「烏」を「アラブ」と読み代えています。合理的に読もうとしているのです。しかし、それでは本来のメッセージを読み取ることはできません。
:4節に「わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる」とあります。「わたし、主なる神」が主語で、強調されています。「神があなたに必要な食べ物は、わたしが必ず備える」となります。主なる神が日毎のパンも、水も与える。」となります。わたしたちを究極的に養うのは主なる神だという事実が示された、わたしたちは主なる神、ヤッハウェを究極的に信頼するというのです。
イスラエルの民は、40年の曠野の旅の中で、その事実を学びました。エジプトから救い出され、モーセに導かれて曠野の旅を続けました。曠野と砂漠でしたので、飢えて命の危機に出遭いました。その時に、マナが与えられ、養われました。喉の渇きは、モーセが杖で岩を打ち、水を流れさせ、渇きはいやされました。その不思議な出来事を通して、神が生きて働かれることを確信しました。真の贖い主は主なる神であることを知りました。しかし、イスラエルの人々は、王国を建設し、外国貿易を盛んにし、経済的に、軍事的にも力を持ちました。すると、荒れ野を導く主なる神を忘れ、主なる神への思いを捨て、謙遜さを失ってきました。バアル神を信仰するようになりました。主なる神でなく、物の豊かさ、金に頼るようになりました。その中で、預言者エリヤは真の助け手、養い主は主なる神であることを知るのでした。
エリヤがケリト川のほとりで神の不思議な養い、配慮の事実を経験し学びました。主イエスはその事実を明らかしています。マタイ福音書6;25以下で、「空の烏をよく見なさい。種を蒔かず、刈り入れをせず、倉に納めもしない。だが、あなた方の天の父は鳥を養ってくださる」。「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、このように装ってくださる。まして、あなたがたはなおさらのことではないか。」「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」とあります。荒れ野の旅は続きます。主イエスはわたしたちを労苦や苦悩から解放しようとしています。神はわたしたちを支え生かし、命を与えます。荒れ野の旅ですが、神の言葉、神の愛に支えられ、生かされている事実を信じ、受け入れ、従って行きたいと思います。