与えられた御言葉はマタイ13章1-9節の「種を蒔く人の譬え」です。イエスは、神の国を福音宣教に譬え、そして、人の生涯を「種を蒔く人」に譬えています。パレスチナの種蒔きは、日本の畑に畝を作って蒔くのではなく、野原にバラバラ蒔きます。そのためでしょう、収穫は僅かです。しかし、良い土地に落ちた種は100倍、60倍、30倍の実を結びます。だから、農夫に求められたことは、決して諦めないこと、失望しないことでした。イエスは神を信じて、神の国の宣教に働く者も同じであると言います。神を信じる者は蒔かれた種の一粒の種が良い地に落ちれば100倍、60倍、30倍の実を結ぶという終末的な希望をもって、どのようなことがあっても失望落胆しない、諦めない、忍耐強く、福音宣教の意欲を持ち続けることが求められています。
:9節に「ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍,あるものは六十倍、或る者は三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい」とあります。この「耳」は「力」という意味がります。「耳を持つ」は「心で聞く、主体的に聞いて従う」ということを意味します。イエスは「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じよ」。「わたしに従って来たいならば、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従え」「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国に相応しくない」と宣べ伝えています。イエスは、「あれか、これか」の決断に立たせ、自由な中から、主体的に神の道を選ぶ決断を求めます。それがイエスの主な働きだと言われます。
「種蒔き人のたとえ」には、多くの人々には、種を蒔いても撒いても実を結ばない現実があります。皆失望落胆し、諦め、挫折し、孤独と虚無に落ち込んでいる。イエスはその現実の中で、「あなたがたは」と言います。「あなた方は流れに逆らうように、狭い門から入れ」というように、狭い道を選んで生きる。一粒の種が良い地に落ちれば必ず100倍、60倍、30倍の実を結ぶ」という言葉を信じて、従うことを求めています。
マタイ福音書は、イザヤ書6章の言葉を引用しています。イザヤ書6章は、イザヤが預言者として召命物語です。イザヤは、神の「わたしはだれを遣わそうか。だれがわたしのために行ってくれるか」という言葉を聞きます。イザヤは直ぐ「ここにわたしがおります。わたしをお遣しください」と答えました。すると、神はイザヤに語るべき言葉を与えます。「民の心を頑なにせよ。聞くには聞くが、理解せず、見るには見るが、決して認めない。心を鈍くせよ」という言葉です。換言すれば、「イスラエルの人々の心を頑なにせよ」となります、神の厳しい裁きの言葉です。不条理な言葉です。イザヤが活動した時代は、イスラエルは経済的に発展し、豊かな時代でした。物とお金が全てという価値観が人々の心を荒廃させ、信仰や正義や愛を喪失し、混迷した時代でした。同時代の予言者アモスは「あなたがたに飢饉が襲う、しかし、その飢饉はパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもない。主の言葉を聞くことのできぬ飢饉である」と言っています。「聞いて理解せず」とが三回使われているように、イスラエルから神の言葉を聞いて、理解し、悟とろうという信仰がなくなっていました。皆神の言葉を無視し、軽蔑し、聞く耳を持たないのです。イザヤも神は頑なイスラエルに怒り、一層頑なにし、心を閉ざすと言うのです。
マタイ福音書は、イエスの到来をイザヤの言葉を引用し、新しい時代、神の国は到来したと言います。「何と幸いなことか、イエスを見ている者は。何と幸いなことか、イエスの言葉を聞いて理解している者は。」と言い、神の言葉を聞いて理解する、悟ることの恵みを語ります。この「聞いて理解する」の「理解する」は、:11節の「秘密を悟らず」の「悟る」とギリシャ語では同じ言葉です。ギリシャ語は、「スンイエームー」で、「スン・共に」と「イエームー・つながる」から成っています。 「繋ぎ合せる、結合する」と言う意味です。つまり、イエスの言葉を理解し、悟る」は、イエスとつながる、イエスと結合する、イエスと心を合わせること]woimisimasuです。イエス・キリストに繋がるならば。キリストに結びついているならば、労苦は決して無駄になることはない」と言われるように、「しっかり結びつく、繋がる」ことです。
パウロは「蒔いた種が茨の中に落ち、薄い地に落ち、芽を出したと思ったのに枯れてしまった。現実は、落胆と失望の世界である。神は生きて、働いていないかのように見える。しかし、主につながる、霊的につながるならば、現実がどのように見えても、神は生きて働いている事実が見えてくる。」と言います
:11節に「あなたがたは天の国の秘密を悟ることが許されている」とあります。マタイ福音書は「神」と言う言葉を避け、「天」と言う言葉を使います。「天の国」とは、「神の支配」のことです。神は生きておられる、神が支配者であることを信じて、生きている世界ことです。この世では実に様々なことが起こります。「神が本当に生きて働いておられるなら、こんなことが起こるはずがない」と思うようなことが起こります。理不尽な不条理なことが起こります。しかし、そういう現実の中で「神は生きておられる」と信じるのです。「あなたがたは天の国の秘密を悟ることが許されている」。この「秘密」は「奥義、分かり難い」という意味です。「悟る」は、「主と心で結びつく、イエスにつながる」ことを意味します。奥儀は分かり難いが、イエスに繋がることよって、悟る恵が与えられている、と言う意味です。
ヨブですが、サタンの力によって、全財産と子どもたちを奪われ、大変な試練に追い込まれます。しかし、ヨブの信仰は揺らぎませんでした。サタンはさらにヨブを滅ぼそうと、難病にかからせます。ヨブはにっちもさっちもいかなくなりました。神を信仰し、正しく敬虔に生きていた者が、なぜこういう目に遭わなければならないのかという疑問をもちます。ヨブの妻は「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」と信仰を捨てるようにと言います。さすがのヨブも「なぜ母親はわたしに乳を与えたのか。なぜ母の膝はわたしを受け止めたのか。そのままにして置いてくれたら、生きていなくてもよかったのに」と言います。「もうわたしを滅ぼしてください」と神に向かって迫っています。しかし、ヨブは絶望し、諦め、孤独、虚無ではありません。「こんな惨めな、不条理を許す神は、神ではない」とか、「神はわたしを裏切った」と言いません。ヨブは神に向かって、自分の邪悪な思い、嘆き、訴えをそのままぶっつけています。そこがヨブらしいところです。ヨブは、理不尽な悲劇や苦痛の中に留まりながら、神に直接訴えています。一貫して、神に直接的に向かっています。つながっています。それはイエスが求めていることです。良い地に蒔かれた種は、100倍、60倍、30倍に実を結ぶと言います。神は本当に生きておられるのか、わたしを見捨てたのではないかという状況の中で、尚忍耐して、信じ、神に希望を置いていく生きる幸せ、恵みを語ります。