今日与えられたテキストはマタイ14:1-21です。二つの食事が並列して記されています。一つはヘロデ王の誕生を祝う宴席です。もう一つはイエスが五つのパンと二匹の魚で5千人以上の人を養う食事です。前者は王の誕生の祝いですから、宮殿の豪華な大広間で、参列している者も身分の高い人々でしょう。そこに並べられている食べ物も飲み物も豪華で、立派な祝宴です。後者は、イスラエルの民が曠野を彷徨って、マナを与えられて辛うじて生き延びることができたマナ、その曠野の食事を思い出させる五つのパンと二匹の魚の食事です。マタイはその二つを対比させてメッセージを伝えます。
ヘロデ王の誕生祝い祝宴ですが、その途中、獄に捕えられていたバプテスマのヨハネの首が切られるという猟奇的な事件が起こりました。バプテスマのヨハネは、イエスの先駆者として、民衆の間に立って、「悔い改め」を迫りました。「悔い改め」は、メタノイアーと言いまして、「方向転換」を意味します。民衆の間に入り「足元に裁きの斧が置かれている、裁きから免れると思うな」と、神の正義の教えや愛を失っていた人々に、厳しい神の裁きを宣べ伝え、悔い改め、方向転換を迫りました。
その悔い改めを迫る活動中に、ヘロデ王が兄弟フィリポ王の妻ヘロディアを奪って結婚するという忌まわしい事件が起こりました。ヘロデとフィリポとヘロディアの父アリストブロスは、それぞれ母は違いますが、父はヘロデ大王です。アリストブロスはBC7年、父ヘロデ大王に殺されます。その娘がヘロディアで、7歳の時です。ヘロディアは、伯父のフィリポと婚約させせられ、後に結婚します。フィリポは何の野心もない、おとなしく、平凡な男でしたから、ヘロディアにはつまらない夫でした。(兄はアグリッパで、後にユダヤ人の王になります)。ヘロディアも女性ですが、野心家でした。やがて大きな権力を持つヘロデ王に近づき、娘を連れてヘロデの宮殿に乗り込みました。正義と愛に生きるヨハネは、ヘロデ王とヘロディアの行動を信仰的にも、律法的にも許すことが出来ませんでした。当時の人々はヘロデ王の権力を恐れ、誰も、「反対」を唱える者はいませんでした。ヨハネは神に遣わされた者として、ヘロデ王の振舞いをそのままに放置して置くならば、国の根幹が揺らぎ、滅亡するという危機感を持ち、ヘロデ王に悔い改めと改心を迫るのでした。
ヘロデの誕生を祝う日、ヘロディアの連れ子が見事踊りを演じ、その褒美としてヨハネの首を望んだので、ヘロデは、居並ぶ家臣や家来の顔を恐れて、ヨハネを殺害し、ヨハネの首を盆の乗せて渡すのでした。 (カラヴァッジオ「盆にのったヨハネの首」)
ヨハネはイエスと同じ年齢で、30歳くらいです。まだ青年です。信仰と正義に燃えた青年ヨハネがヘロデ王に首を切られ、殺害されました。不合理で非情な死です。彼の父親はザカリア、母はエリザベト、二人の間には、長い間子どもがありませんでした。長い祈りがやっと聞かれ、ヨハネが与えられました。その愛するわが子が若くして殺害された。彼らは、悲しみと絶望に打ちひしがれたと思います。どこに神の御心はあるのかと悩んだはずです。しかし、この残忍な出来事にこも、救い、福音を見つける。そのメッセージを伝えるために、二つの食事は並列しているのです。
:12「それから、ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した。イエスはこれを聞くと、船に乗ってそこを去り、人里離れたところに退かれた。そこで、五つのパンと二匹の魚で、男だけで5千人、女や子供を考えれば、一万人以上の人々を給食するという奇跡が起こっているのです。そのイエスの奇跡とヨハネの死は連続しているというのです。:12節と:13節の「5千人に食べ物を与える」の記事には本来段落はなくて、二つで一つの話です。つまり、ヨハネの死に、イエスの御業が続いているのです。ヨハネの死なくして、「五つのパンと二匹の魚で五千人を給食」の奇跡はないのです。この「五つのパンと二匹の魚で五千人を給食」は、聖餐式の原点です。わたしたちの救いの招きの原点、命です。その聖餐の原点のイエスの御業は、ヨハネの死と続いているのです。ヨハネの死は終わりではありません。五つのパンと二匹の魚で五千人を給食する出来事は連続しているのです。ヨハネの死は無残な、惨めな、敗北ではありません。かつて、「彼は必ず栄え、わたしは衰える」と言われたように、イエス・キリストを指して生き抜き、死ぬなら、必ず、それに続く聖霊の御業があるのです。
列王記にナボト物語があります。ナボトは、イスラエルの王アハブの宮殿の隣にぶどう畑を持っていました。アハブ王は、ナボトのぶどう畑を羨ましく思い、引き渡せ、代わり、もっと良いぶどう畑を与え、倍額の代金を支払うと申し出るのです。しかし、ナボトは、土地は神が与えてくれた「しるし」、神に生かされている信仰の証しだから、譲ることはできないと拒みました。アハブ王はナボトの拒絶に会い、怒り狂いました。イゼベルと共に、家臣を使って、「ナボトは神と王とを呪った」と偽証させ、ナボトを捕えて、石で撃ち殺し、ぶどう畑を自分のものにしてしまった、というのです。ナボトは悲劇の生涯、人生をおくりました。神の正義と愛は敗れ、悪と不義が勝利したかのように見えます。理不尽なことです。矛盾しています。ヨブのようになぜ正しい者が苦しみ、悪い者が富み、栄えるのか、その理不尽に不条理に絶望しそうになります。しかし、アハブ王は厳しい神の裁きを受け、滅亡します。イスラエルの歴史をみると、あの権力と権勢を誇り、恣意的に振舞いまったアハブ王は消えてなくなっています。しかし、ナボトの人生は実に多くのに人に勇気や希望を与えています。このナボトから、信仰、真理、神の御言葉のために迫害や苦難を恐れない証人が生まれました。ナボトは悲劇と苦難の生涯を閉じました。しかし、彼が神に忠実に生きたがゆえに、信仰によって今も生きています。
ヘロデ王は、ヘロディアと結婚するために離婚した先妻の父アレタス王に攻められ、失脚し、流刑になり、せっかく手にしたヘロディアから背かれ、失意のうちに死んで逝きました。ヘロデ王からは真の命は生まれません。しかし、ヨハネが指し示めしたイエス・キリストからは、多くの真の命が生まれました。一粒の麦のようです。一粒の麦が地に蒔かれて死ぬと、そこから新しい真の命が生まれます。神は一粒の麦を蒔く人を招いておられます。神の招きに応えていきたいとおもいます。