2026年8月23日 「イエスを受け入れ、信じる」 ヨハネ福音書6:22-40

与えられたテキストはヨハネ福音書6:22-40です。ヨハネ福音9章の生まれつきの盲人がイエスに癒され、目が開けられました、彼は喜んでイエスの癒しを証ししました。そのために、ユダヤ主義社会から追放されると言う厳しい時代背景の中で、ヨハネ福音書はキリストの信仰をめいかにする意図を持って記しています。例えば、ギリシャ人やローマ人がよく使っていた「アレセイヤー・真理」と言う言葉を用いて、信仰を表しています。5:33に「。「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証をした。わたしは、人間による証しは受けない。」とあります。8:31、32に、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」とあります。18:37、38には、「わたしは真理につい証をするために生まれ、そのためにこの世に来た」とあります。ポンテオ・ピラトは、「真理とは何か」と軽蔑しています。この世の豊かな生活、出世、権力を得ることのないお前の言う真理は、意味もない」と言っ。ポンテオ・ピラトは自分の地位を得え、金儲けができ、直接的に利益を得るものでなければ、真理ではない、と言うのです。そのポンテオ・ピラトの真理拒否、無関心が本質的な問題になりました。

:26「イエスは答えて言われた。『あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからかれではなく、パンを食べて満腹したからだ。』」とあります。この「しるし・セメイオン」の「動詞・セマイオー」は「指し示す、告げる」と言う意味です。「真理」を指し示すという意味です。「見る」は「見分ける、確かめる、観察する」という意味です。つまり、彼らがイエスのところに来たのは、真理を見分けたからではない。イエスの言う真理には関心があり、真理を知ろうとしてイエスを捜しにきたのではないと言うのです。イエスが五つのパンと二匹の魚で、五千人もの人を給食され、彼らは満腹した。その満腹ためにイエスを捜しに来たのだ、と言うのです。イエスは、目に見える期日だけに関心があり、イエスが大事にした目に見えない事実、動機を問題にしまい。イエスは目に見えない、心の深いところの動機が大事だというのです。

6:14を見ますと、群衆が給食を受けた後、イエスを長年待望してきた救い主に、ローマの圧政から解放する解放者、王に祭り上げようとした。イエスは違う。「わたしは人に仕えられるために来たのではなく、仕えるために、多くの人の身代金として来た」と言って、彼らの思いを否定しています。「一人で山に退いた」と記されています。イエスを取り巻く人々は、あのピラトのように、イエスを自分の利益のため、自己満足させるために利用しようとしているのです。

:30に「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。」とあります。この場合の「しるし」は奇跡を意味します。「五千人を給食された奇跡では不十分だ」と言うのです。まだ、奇跡を行って欲しい。奇跡を見せてくれたら信じることが出来る。信じることが出来ない原因は、自分にあるのではなく、しるしを示さないイエスにあると言うのです。アダムとエバが犯した罪、責任転嫁です。自己中心の罪です。

:31「わたしたちの先祖は、荒れ野でマナを食べました。あなたは何をしてくれますか」。出エジプトのモーセ時代に、荒れ野を旅したときに、飢えで苦しみました。その時に、マナで養われた話を聞いていたのです。あの先祖の時はマナで救われた。あなたはわたしたち何をしてくれるのですか、と、欲求するのです。荒れ野のマナの話は出エジプト16章に出て来ます。モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民が、まもなく食べる物がなくて飢えに苦しみます。飢えの苦しみは並大抵のことではありません。彼らは、苦しみの余り、エジプトでは奴隷生活が良かったと言うようになってしまいます。何の自由もなかったが、食べることは出来ました。その生活の方が良かった。「なぜエジプトを出て来たのか」と後悔いているのです。自分で決断したハズなのに、「神が悪い、モーセが悪い」、「神はエジプトに墓が無かったので、荒れ野に導いたのだ。我々を滅ぼそうとしている」と疑い、絶望しているのです。神は、彼らの苦しみを見かねて、憐れんで、マナを降らせ、養ってくれたのです。群衆は、神の恩恵を認めないで(教えなかったのでしょうか)、満腹したことだけを知っているのです。出エジプトの神は苦しんでいる先祖を養ったのだから、あなたも養うべきだ、と言うのです。際限なく自己本位、自己中心です。御言葉は、その底知れぬ深い罪から人間を解放し、罪から救い出したいというイエスの思いが記されているのです。

:28を見ますと、彼らは「神の業を行うためには何をしたらよいでしょうか」とイエスに尋ねます。この「神の業」は複数です。あれも、これも、善行を意味します。彼らは善行を積むことのよって救われると考えていました。ですから、良い行いをする、善行を積むことには熱心です。が、自分の弱さを認めようとしません。アダムとイブの罪のように、弱さを隠すために「言い訳」をします。自分たちが悪いのではなく、助けないイエスが悪いと責任転嫁をするのです。

:29イエスは答えます。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とあります。イエスの信仰を言い表す大切な言葉です。この「神の業」は単数形で、「ただ一つ」を意味します。ルカ10:38の「マリアとマルタの物語の中に出てくる。『「無くてならないものは多くない、いやただ一つだ。マリアはその良いものを選んだ。だれもマリアからそれを奪い取ることは出来ない。』と言われた」です。「無くてならないもの、ただ一つ」の「一つ」です。神の業・神のための働きは、ただ「一つ」、神がお遣わしになったイエスを「信じる」ことです。善行を積むことでも、良い働きをすることでもなく、イエスを「信じて」、受け入れる」ことです。この「信じる」と訳されている言葉は、神が遣わしたイエスの中に自分を入れていく、自分の全身をイエスに投げ込んでいくという意味です。言い換えれば、「イエスに委ねる」です。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物だと言います。命の源、霊的に生きる根源です。イエスは、神に委ねることを食べ物だと与えています。柏木先生は「死を背負って生きる」という著書の中で、「祈って神に委ねた場合は、たとえ結果が願っていたようにならなくても、まさかという結果が出ても、別の意味を見つけて、積極的に受け入れることができる。しかす、他の運命や人や自然に委ねた場合、結果が思わしくなければ、仕方がないと諦め、悲観的、消極的になってしまいます」と述べています。長年生き辛さに苦しんでいたある人が、委ねることを学ばれました。そうると、生き辛い思いから解放されました。祈って神に委ねていく、イエスの中に全身で入っていく。そうしたとき、新しい生き方、命を受けることが出来ると思います。