2026年8月30日 「わたしは世の光である」 ヨハネ福音書8;12-20

 与えられたテキストはヨハネ福音書8章12-20節です。12節に「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩まず、命の光を持つ」とあります。主イエスとファリサイ派の人々と論争する場面です。「わたし、、、である」はヨハネ独特のメシア宣言です。旧約時代、神が初めて「わたしはヤッハウェという神である」と自らを明らかにされた宣言を継承しています。イエスは、その「エゴー エミー」の神宣言の形式を用いています。神宣言ですから、ファリサイ派の人々や律法主義の人々は、「イエスは神の権限を犯した、赦しておくことはできない。」と、イエスを捕らえて、処罰しようとしました。イエスとユダヤの人々の間に緊迫した状況が生まれました。その緊迫感中で、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を命の光を持って歩みなさい」と言われる。イエスのメシア宣言です。この「世の光」は「神の救い」を表す象徴的な意味を持っていました。例えば、詩編27:1には「主はわたしの光、わたしの救いだ。わたしは誰を恐れよう。」と、ミカ書7:8には「わが敵よ、わたしについて喜ぶな。たといわたしが倒れるとも起きあがる。たといわたしが暗やみに座るとも、主はわが光となられる。」とあります。イザヤ60:1には、「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」とあります。旧約聖書の伝統的な「光」という言葉を使い、「世の光」としての救いを明らかにしたのです。

:12節に、「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』」とあります。出エ13:20に、荒れ野の旅の間「主は彼らに先立って進み、昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱をもって彼らを照らされたので、彼らは昼も夜も行進することができた。」と)あります。その出来事を記念して行われていた仮庵祭に代わって「光の祭り」の教えが行われた。神殿の境内に4本の高い塔が立て、その天辺に黄金の燭台が置かれ、それに油が注がれ、火が灯されると、エルサレムの神殿だけでなく、辺りは夜でも真昼のような明るさで、その光を仰ぎ見ることができました。その人工的な光に対抗するように、イエスの「世の光」の譬えが語られたのです。

「あなたの御言葉はわが足のともしび、わが道の光です」(詩編119:105)とあります。人間が造った光は、どんなに明るく照り輝いても、人を永遠の命、終末的な希望に導くことはできません。イエス・キリストを他にして永遠の命に導くことができる存在はないと言うのです。

:20節に「イエスは神殿の境内の宝物殿の近くで、話された」とあります。この「宝物殿」は、口語訳では「賽銭箱」でした。境内には12の賽銭箱が置かれていた。その賽銭箱にラッパ型の拡声器を付け、お賽銭を増やしたいと思い、お金を箱の中に入れる度に、ジャラン、ギャランと大きな音が出るようになっていました。彼らの関心は信仰よりは別のところにありました。正に世俗社会そのものです。その世俗社会の真っ直中で、イエスは「わたしは世の光である」と教えられたのです。「聞く耳のある者は聞来なさい」と言われるように、ジャラン、ジャランとやかましい程の世俗社会の声が聞こえる中で、イエスの教えを聞くのです。「心の耳を澄まして」と言われます。「主よ、お語りください。僕聞きます」と聞く決意のようなものが求められます。列王記上19:12節の「エリヤ物語」は、エリヤはアハブ王の迫害を逃れて、ホレブ山の洞窟に隠れているとき、「エリヤよ、ここで何をしているのか」と言う神の声を聞きます。神に促されて、エリヤは洞穴の中から出て来て、入り口に立った、という象徴的な物語があります。神の声に促されたのです。しかし、その神の声は、世に響くような声ではなく、静かにささやくような声だった。そのささやかな静かな声を聞いていくことが求められます。

イエスが「わたしは世の光だ」と宣告すると、フャリサイ派の人々は、自己宣伝だ、自慢話だ、うそばかり並び立てていると激しく攻撃し、拒否し、排斥しました。その拒否と排斥の流れに逆らって、イエスは世の光であると信じて、従っていく、決断を求められたのです。

6:66でイエスが「わたしは天から降った生きたパンである」と言うと、多くの弟子たちはイエスの元から離れて行きました。その時、イエスは弟子の12人に「あなたがたも離れていくのか」と問われます。すすると、12人は「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉をもっておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは知っていますし、信じています」と告白します。告白ですから、他の人はどうであれ、わたしは信じ、従います。約束するのです。イエスを信じる者は暗闇の中を歩かず、と言います。

、律法主義者が「あなたの言うことは自己自慢だ、真実ではない、」と言います。すると、イエスは「わたしは自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、知っている。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない」と言います。この「どこから来て、どこへ行くのか」は、宗教と哲学の本質的な問いであると思います。聖書でも「わたしは何者ですか」と問う問いがしばしば出て来ます。別の言葉で言えば、人間とはなにか、人間の存在、生きる意味と目的は何かということです。聖書では、人間のことを「エノーシュ」と言います。エノーシュは本来「弱い、もろい、病む」などの意味です。詩編90編、「人生の年月は70年程のものです。健やかな人が80年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去りまあれかがす。。」とあります。弱く、悲しく、もろい・エノーシュです、委や、それだから、人生に意味と目的があるのです。不条理な、不合理な出来事に出会うエノーシュの人生に、意味と目的と使命があると言う。イエスは世の光です。

9章に、弟子たちが生まれつきの盲人を見つけ、「この人が生まれつき盲人として生まれた、不条理をどう理解したら良いのか。これまで教えでは、自分か、両親か、誰かが罪を犯した。その罪の報いだと教えられてきた」と言う。イエスは「本人や親の罪の報いや前世の因縁ではない、彼の上に神の御業が現れるためである」と答えられる。盲人であることの原因や責任ではなく、その意味と目的とを示されました。人間の生きる意味は、神の御業が現れるためであると言います。この御言葉から多くの人が救われました。因果応報論や宿命論を突破することが出来、生きる希望の光を得ることが出来ました。

イエスは、世の光として生きる意味を、究極的な目標を与えてくださいます。パウロは、「なすべきことはただ一つ、後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリストによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:13)と言っています。神が、生きる意味と目的と使命とを与えてくれる、それが信仰です。あなたは世の光です。イエスに従う者は暗闇の中を歩かされることがあるが。イエスは世の光になって、行く道を導いてくださる。その信仰的事実を信じて歩んで行きましょう。