与えられたテキストはマタイ10:16-24の「迫害を予告する」です。;16に「わたしはなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」とあります。この言葉が語られた背景を見ます。9:35に、「群集が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれました。」とあります。この「深く憐れむ」は「お腹を痛める」という意味があります。イエスは弱り果てた群衆を見て、「お腹を痛めるほど、激しく心を動かされました」。その結果、12人の弟子たちを呼び寄せ、派遣したというのです。「はなむけ」という言葉があります。「馬の鼻を行くべき方向に向けてやる」という意味です。イエスが弟子たちに生きて行くべき方向、遣わされる意味を示した言葉です。マタイ10:22に、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とあります。「最後」はギリシャ語で「テロス」と言い、「目的、終わり」意味します。イエスはヨシュア記1;5以下に「一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように,あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。ただ、強く、雄々しくあって、わたしの僕モーセに命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。」とあります。イエスはヨシュアの言葉を引用し、弟子たちにはなむけの言葉を、「目的、終わりを見つめて、右にも左にもそれないで、歩むように」と勇気づけています。
無教会の矢内原忠雄が東大の学長の時、卒業式の式辞に、この聖書の言葉を引用され、「諸君を社会に送り出すのは、ある意味において、狼の群れの中に羊を入れるような思いがする」と述べました。すると、世間は、「我々を狼呼ばわりするのか。我々を狼呼ばわりする東大の学長は何も者だ」と反発が起こりました。結局矢内原忠雄学長は辞任することになりました。矢内原先生の式辞を全部読むと、「あなたがたの出て行く社会は、非常に激しい競争社会である。打算的で、自分の利益だけを求める、強い者が弱い者を喰い殺してしまいそうな社会だ。だから、あなたがたは、この世の風潮に飲み込まれないように。正義や愛や真理のために、勇敢に闘う精神をもって出て行って欲しい。」と語られています。矢内原学長の真意は理解されませんでした。矢内原先生がキリスト者であったことが強い影響があったと言われました。キリスト者でなかったら、あのような反発、批判を受けなかったかも知れないと言われます。矢内原先生は聖書の言葉に従って「はなむけ」の言葉を述べたために、激しい攻撃にさらされた。矢内原事件は、キリスト者がこの世の中を生きるとき、反発や攻撃に会い、重荷を負わなければならない事実を伝えていると思います。
イエスの弟子たちが、イエスから遣わされ、託された福音を携えて出て行く世は、福音を否定し、拒絶する世であると言い、だから、世を愛せよと言われます。矛盾し、不条理なことですが、それが事実です。
イエスは「この世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたを迫害するだろう。」と言います。弟子たちが遣わされて行く世はイエスを拒絶し、拒否した世である。だから、遣わされて行く弟子たちを拒否し、歓迎しないのは当然かもしれない。伝道ということはそういうものだ。イエスは、そのことを十分に知っておられたので、このような言葉を「はなむけ」として送られたのではないかと思います。
「わたしはあなたがたを遣わす。」とあります。この「遣わす」は、王が特使を遣わす時に使う言葉です。王の特使ですから、丁重に歓迎されることを意味します。しかし、キリストから「遣わされる特使」は、ブーイングを浴びせられ、拒否と攻撃されます。誰だって、戸惑います、躊躇します。ですから、;16の原文には、文頭に、日本語には訳されていませんがありません、「Behold、見よ」という言葉があります。「主を見よ、主、イエスだけに目を注ぎなさい」となります。
;15に「わたしがあなたがたを遣わす」とあります。ギリシャ語では、この文章には主語、動詞があります。強調する時、重要な時には、主語があります。「わたし」が強調されています。「わたし」、イエスが共にいてくださる、共に重荷を負ってくださるのです。イエスが責任をとってくださると言うのです。「~だから、~ですから、ヘビのように賢く、鳩のように素直になりなさい」と言います。この「賢い」は、「用心深さの点では」です。「人を出し抜く、抜け目のない賢さ」ではありません。本来は「敏捷」です。ヘビは逃げるのが早いです。その「敏捷さ」です。「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」と言います。「逃げろ」と言うのです。やたらに猛勇を奮って戦うな。危なくなったら、逃げたら良い。他の町に行ったらよい。他の町に行ったらよい。そこで主イエスの恵みを語り続ければよい。イエスは、「ゆるやか、ふくよかな、自由」を与えてくれます。「鳩のような素直」は「純真無垢」ではない、本来は「逆らわない」です。「起こった事態に逆らわない、受け入れる、受容」です。弱さに徹する恵み、勇気、自由です。事態に逆らわない受容。これも自由で、勇気の要ることです。僕の友人は、ガンが再発してピンチにさらされています。後残り6ヶ月、抗がん剤の効果があっても20ヶ月と宣告されました。彼はその事実を受け入れ、受容しました。受容には力、勇気が与えられます。
「わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しすることになる。引き渡される時に、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる」とあります。思い煩いや取り越し苦労から解放されます。自由と喜びを与えられます。パウロはイエスの言葉に従った結果として、恵みとして、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かった」と言っています。「貧しく暮らすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、何時如何なる場合にも対処する秘訣」と言います。信仰による自由と、勇気が与えられたと言うのです。このイエスの言葉を信じて、受け入れていきたいと思います。