与えられたテキストはマタイ20:17-28です。十字架を前にして、イエスがエルサレムに上る、その途中で起こった出来事が記されています。編集的には、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」という言葉を中心に構成されていると思います。この「人の子」は「イエス」を指しています。「来る」は、ギリシャ語で「エルコマイ」と言います。他に福音書で2回、マルコ2:17「わたしは来た。正しい人を招くためではなく、罪人を招くために」。ヨハネ12:47「わたしは来た。世を裁くためではなく、世を救うために」に用いられています。この「来る」は「ために」と結びついて、イエスのメシア性、来た目的、使命を表わす言葉になっています
20:17「イエスはエルサレムに上って行く途中、12人の弟子たちだけを呼び寄せて言われました。『今、わたしたちはエルサレムに上って行く。人の子は、祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。侮辱されて、鞭で打たれ、十字架につけられる』」とあります。人の子の使命と目的の告白は、十字架の死の予告のから始まっています。「エルサレムに上って行く」の「上って行く」は「心を決める、決断する」という意味があります。意訳すると、「エルサレム行きを決断した」となります。イエスは決断したのですが、この先で、「恐れて、もだえ始められた」「わたしは死ぬほど悲しい」と呟いているように、心の内面には葛藤があり、悩み苦しんでいます。:20「そのとき」は、「丁度そのとき」という意味です。「母親が二人の息子と一緒に来て、イエスにひれ伏して、何かを願おうとした」。すると、イエスは「何かお望みですか」と尋ねます。すると、母親は「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人に左に座れるとおっしゃってください」と言った。ここで、注目したいことは、イエスが、「何が望みか」と母親に尋ねている点です。普通に考えれば、死を前にして、恐れ悩み苦しんでいる人が、他人を顧みることはできない、と思います。自分のことで精一杯で、他者のことに構う余裕はないと思います。ところが、イエスは違います。彼女に近づき、顧みています。善きサマリア人が傷つき倒れている人を見て、立ち止まり、介抱されたように、年老いた母親に目を注いでいます。ここに、イエスのメシア性、イエスの人格、イエスの神性が表れていると思います。「哀れに思う」の原語は「腸、腹、はらわたを痛める」という意味です。イエスは他人の痛み、弱さに心を痛める愛と許しと寛容のメシアです。
マタイ福音書は、マルコ福音書には登場しない二人の弟子の母親(年老いた)を登場させています。その編集の意図はなにか。二人の息子、ヤコブとヨハネを連れてきたと言います。彼らはガリラヤ湖の漁師で、立派な大人です。その大人の息子に代わってお願いをする。少し違和感を持ちます。年老いた母親が出てくる場面ではありません。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人に左に座れるとおっしゃってください」と願っています。原文は「わたし(ムウ、of mine)の二人の息子だけは」です。「言う」は「誓う、約束する」です。わが子だけを愛する偏愛です。彼女の関心はもだえ苦しむイエスにはありません。二人の息子の成功と栄誉です。歪んだ自己愛、自分本位のエゴイズムの罪、ハマルティア罪を見ています。
マタイ福音書は、ほかの十人の弟子たちを登場させています。;24「ほかの十人の者はこれを聞いて、二人の兄弟のことで腹を立てた、憤慨する、憤った」と記しています。つまり、他の弟子たちの内心は同じです。自分の成功、栄誉しか求めていないエゴイズム・自己中心主義、自己拡張、ハマルティアの罪を見ています。罪はヤコブとヨハネの母親の、10人の弟子たちだけの問題でなく、全ての人間の問題であるというのです。それだけに、どうしても解決しなければならない人間の本質、根源的な課題だと言うのです。
椿昇という現代美術家がおられます。椿さんの作品は「人間の欲望を真正面から見据え、その際限のない欲望の恐怖を訴えている」と言われます。「人類は長年、欲望をそのままにしてきた。そのために、欲望は地球規模に膨れあがり、制御不能の瀬戸際まできている。わたしたちはその瀬戸際に生きている。人間の際限のない欲望という罪は世界の滅びに至らせる。しかし、救いの道はどこにも見出せない」という言葉を遺しておられます。イエスの言葉は、椿さんの問いにたいする一つの答えだと思います。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように」です。「皆に仕える者、皆の奴隷となる」。イエスの告白するメシアです。金力や権力でもって支配する救い主ではありません。仕える、それも徹底的に仕えるメシアです。儲けて、奪って、得る、栄えるメシアではなく、献げる、与えるメシアです。仕え方は様々だと思いますが、仕える、献げる、与える生き方に救いがあると言う。
パウロは、「仕えるキリスト」について、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました」と。「このため、デイオ」は「結果」です。従順に仕えた。その結果、高く上げられる勝利を与えられた。ちなみに、この母親は十字架の下に立って、主を見上げています。最後まで、イエスに仕えています。「仕える」ことは「辛い、苦しい」ことです。結果として、終末論的に祝福に与ると。永遠の命に与る。ですから、仕える生き方を得心していきたいと思います。