与えられたテキストはヨハネ福音書15;1―17です。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」で始まる御言葉です。主イエスは、「わたしがまことのぶどうの木である」と言われます。この「まこと」はギリシャ語で「アレセイアー」と言い「真実、真理、偽りでない」などの意味があります。主イエスは真理の木、真実の木、あなたがたは、その木に連なる枝である。そして、その枝は豊かに実を結ぶと言います。ここでは、「豊かな実を結ぶ」が繰り返され、強調されています。子の「豊かに」は、ぶどうの実の大きさや格好の良さなど、見た目ではなく、内容、内実を意味します。子どもの頃、家の裏側の畠にぶどうの木がありました。秋になると食べ切ることができないほど実りました。房を手に取ると、ずっしりと手応えを感じました。この「豊かな」は、その「手応え、充実感」を意味します。言い換えれば、生きている、生かされている手応え、充実感です。
或る先生は「神を信じて生きる信仰は、幹に繋がっている人の人生が実り多きことを確信することである。実らないと諦め、人生なんてこんなものだと割り切ってしまう。そうではなく、実り豊かな終わりがあることを信じて生きることである」と述べています。主イエスは、繰り返し、実り豊かな人生を結ぶことを語っています。しかし、多くの人は信じることができません。厳しい現実がありますから、いつも失望落胆しています。しかし、主イエスは、わたしたちの常識や経験に逆らうように実り豊かな人生を生きることができる。そのためには、手応え、重量感を感じる、豊かな人生を与えてくれる主イエスにつながっていなければならない,と言う。;4、5「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっていれば、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては,あなたがたは何もできないからである。」とあります。この「つながる」は「とどまる」と言う意味で、文語訳聖書は、「我にとどまり、我がこれにとどまる人、これ多くの実を結ぶ者なり」なっています。この「とどまる」は、体の一部や、心の一部が繋がるのではなく、存在全体が繋がることを意味します。「信じる」は「believe in God」で、前置詞の「in」があります。直訳すると、神の中にあることを信じるということになります。日本語では、「神を」となり、神が直接目的になります。つまり、神が人間の目的になります。言い換えれば、神を人間の都合のよいように利用することのなりがちです。しかし、主イエスが言われることは逆です。Believe in God神の中に入っていく、人間が罪を赦されて生かされる。その事実を信じることが信仰であると言うのです
芥川龍之介は「蜘蛛の糸」で、「人は天と蜘蛛の糸のように細い糸で繋がっている」と言います。そのほうが日本人には受容れ易いかもしれません。しかし、主イエスは、ぶどうの幹と枝のように、しっかりと繋がる。だから、豊かな実を結ぶと言います。
ドイツのゴルヴィッツアー牧師は、戦争中シベリアに抑留されていました。長い抑留生活の中で、多くの人々は、祖国に帰る希望を失い、諦めと絶望の中におかれていました。その時に、今日の御言葉が与えられました。その時のことを、「真夜中に突然、朝の光が射してきたような思いを与えられた」と述べています。彼は、ここに出てくる『実を結ぶ』という御言葉を全部取り出してつなぎ合わせてみました。すると、暗い穴から明るい光の中へかけられた梯子を一歩一歩上っていくような感じを受けた、と述べています。
:5「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。「実を結ぶ」は命令形ではありません。直説法で神の約束で、真実を言っています。「抑留の地、シベリアでも実を結ぶことができる。もう故郷に帰ることはできない。体力も気力も衰えている。状況は極悪での状況が、少しも変わっていない。しかし、豊かに実を結ぶと言う主イエスの約束を信じる妨げにはならない事実に気付かされ、この御言葉に支えに生き延びることができた。」と記しています。
ゴルヴィツアーは「『豊かな実を結ぶ』という言葉から、人生の成功を想像するかも知れないが、そうではない。成功とは違う。人生の成功、不成功に喜んだり悲しんだりする思いから解放されることを意味する。世間が自分をどう見るか。自分が自分をどう見るかを越えて、わたしは主イエスにつながっている、主はわたしにつながっているという確信を持つことだ」と記しています。自分の歩みを振り返って、自分は何度も挫折し失敗をした。自分の人生を人間的な目で見れば祝福されていたと、とても言えない。何回も病気をし、子供を失い。妻を苦しめた。そういう体験を繰り返してきた。しかし、主イエスは、そういう自分に、「あなたはわたしの枝である。わたしはぶどうの木、わたしにつながっていれば豊かに実を結ぶ。そして、わたしを、主の器、キリストの恵みを証しする者にしてくださる」と言っています。
「わたしにつながっていなさい」と、主につながることを勧めていますが、同時に、「わたしもあなたがたにつながっている」と、繰り返されていることに気付かされます。主イエスご自身がつながってくださるのです。そうでなければ、わたしは主イエスの枝であることはできません。主イエスが枝としてくださる。それももう少し成長すれば、もう少し立派になったら、というのではありません。今、現在の、そのままのわたしを、枝としてくださるのです。そして、豊かな実を実らせてくださるのです。そのような信仰、幻の中で生かされるのであります。