与えられたテキストは、ルカ福音書13:31-35です。「ちょうどそのとき、ファリサイ派の人々が何人かが近寄って来て、イエスに言った。『ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。』イエスは言われた。「行って、あの狐に、『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』とわたしが言ったと伝えなさい。だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。」とあります。この「ねばならない」は、ギリシャ語で「デイ」で、「進まねばならない」と訳すことができます。同時に、「進みたい、進まないではいられない」とも訳せます。「進まねばならない」と訳すか、「進みたい、進まないでいられない」と訳すかは、解釈者の信仰理解の相違だと思います。新共同訳は「ねばならない」となっています。知人は几帳面で真面目な信仰を持ち、礼拝を欠席することはありません。彼は「ネバナラナイ」と解釈します。その他、「祈らなければならない、愛さなければならない、赦さなければならない。」と言います。「ねばならない」が彼の信仰の基点、行動の基点であることが見えます。
日本がキリスト教を受け入れたのは、16世紀(1549年)の江戸時代、儒教の影響を受けた武士階層の人々と言われます。キリスト信仰はミッションを通して入ってきました。その信仰はピユーリタン的で、厳格で、倫理性に富み、厳しい規則的信仰に見えます。厳格主義だと言われ、教えは立派で、厳しい道徳、倫理性を有し、厳格主義的な信仰です。その信仰的特色は聖書の解釈にも表れています。フィリピ4:4、;6「主において常に喜びなさい。どんなことでも、思い煩うのは止めなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを打ち明けなさい。」とありす。「常に喜びなさい、祈りと願いを打ち明けなさい」と、命令形で訳されるのも、厳格主義的信仰の表れだと思います。原文は、「命令」よりも、信頼を込めた「呼びかけ」です。「いつも喜んでいますね」「喜んでいてください」と愛の言葉の語リかけ、希望や慰めを与える言葉です。
教育学者の大田暁さんが、日本の教育現場で使われる言葉は、「座りなさい」「立ちなさい」「書きなさい」など、「なになにしなさい」という命令形が多い。しかし、外国では、例えば、イギリスでは「Would you like?(もしよかったら)」とか、「Could you?(できれば)」などを文頭につけて、「座ってください」「書いてください」と言われるそうです。命令は上から目線です。「座ってください」「書いてください」には、優しさ、愛、慰めがあります。主イエスの言葉も、本来は、慰めと励ましの言葉です。
18世紀に出たシュライエルマッハーという神学者は、義務や命令(倫理・道徳)と福音の違いを明確にしました。「ネバナラナイ・義務的に読む人は、人間の力を信じ、自分に自信を持っている。自分には間違いがない、正しいと考えている。原罪がない。罪の赦しがない」と言っています。福音は、罪の赦し、赦されることのない罪が、イエスの十字架によって贖われる。神の一方的な恵み、救いです。義務は頑張り、努力です。その意味では、「福音は倫理や道徳と違う」と言われます。
;33の「自分の道を進まねばならない」ですが、「デイ」が用いられています。「進みたい」と訳したいと思います。主イエスは、「ネバナラナイ・義務だから、進んだのではなく、進みたいという気持ちから、自分の道を進んだ」。弟子たちを思う愛から、進みたい、進まないではいられないというイエスの気持ちが第一だと思います。この「進む」は「ポリュウオマイ」と言いまして、ヨハネ福音書でも使っています。「ローマの兵士たちが、松明や武器を手にして、イエスに迫りました。その時、主イエスが『誰を捜しているのか』と言われると、彼らは『ナザレのイエスだ』と言いました。すると、イエスは、『わたしだ』と進み出られた」とあります。その「自ら進み出た」が、ポリュウオマイです。イエスの信仰と行動の原理は、「ネバナラナイ・義務」や「出なさい・命令」ではない自由、自らの意志、自発的思い、気持ち、愛だと思います。
マタイ福音書5;41に「だれかが、Ⅰミリオン行くように強いるなら、一緒にⅡミリオン行きなさい。」という言葉があります。「一緒に」は「強いて」という意味です。「強いて行かせる」は「アンガリュセイ」で「徴兵、兵役の義務」を意味します。最初の1マイルは「義務・ネバナラナイ」です。しかし、もう1マイルは、義務や強制ではなく、自発的、主体的に行く1マイルです。ラテン語で「ボランタス」と言い、「ボランティア」の原語です。「自由意志、自発性・自由性」です。それらが信仰の起点だという考えです。
或る人は、「礼拝出席は義務だと言っている」と紹介しましたが、別の知人は「礼拝に出たくてたまらないから出席する」と言われます。「喜びの余り」と言う言葉がありますが、純粋に、本音から、出席したいから、誰からも強制されるからではない、と言います。
パウロは、「不承不承ではなく、強制されてでもなく、心に決めたとおりにしなさい。喜んでする人を神は愛してくださる」(コリントⅡ9:7)。「不承不承」は、「悲しい気持ち、嫌々ながら」を意味します。「強制されてでもなく」は「無理矢理に、ネバナラナイ・義務」を意味します。「心に決めた」は「自分の意志で、自由から」という意味があります。「喜んでする」は「喜びの余り」です。喜びの余り進みたい、自発性、主体的に生きるというのです。神は、そのよう生き方を愛する、喜ぶと言うのです。栢木哲夫先生は「『べき人間』から『たい人間』になる必要がある」と言っています。「何々すべきだ」ということを中心に生きるのではなく、「したいこと」をしていく人間になる」。でも、現実の生活は、90パーセント、ネバナラナイ世界です。しかし、10パーセントの信仰の世界、「したいことをする」世界があります。だれに気兼ねすることなく、したいことをする。神によろこばれる。そういう世界を大事にしていきたいと思います。