2026年5月24日 聖霊降臨日(ぺンテコステ)「聖霊を受けて」 使徒言行録2:1-4

聖霊降臨日(ペンテコステ)礼拝です。与えられたテキストは使徒言行録2;1-4です。 聖霊が弟子たちの上に降った出来事を伝えています。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座って家中に響いた」、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。使徒言行録の記者は、聖霊降臨が実際どのよう風、どのような炎だったのかということには関心がなく、起った事実、起こった出来事に関心があるように見えます。つまり、弟子たちの身に起こったことが重要であると言うのです。

2;3に「そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。」とあります。この「舌」は、ギリシャ語で「グローサ」と言い、「言葉、国語」という意味があります。意訳すると、「聖霊は言葉、国語となって、弟子たちの上に降ると、彼らは言葉を語るようになり、言葉の証人となった。」となります。

:4に、「すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉を語りはじめた」とあります。「他の国々の言葉を語り」の「言葉」は「グローサ・舌」を用いています。また、原文には、「国々」はありません。意訳すると、「今までとは違った言葉を」となります。今まで絶望的なことを語っていたが、不平不満を呟いたが、愚痴や恨みや人の悪口を言っていたが、その時から、神を賛美する言葉、喜びや感謝の言葉を語るようになった。」となります。聖霊が降ると、力を受け、証し人となると約束されているように、新しい存在に変えられたとなります。

サムエル記上10:5に聖霊が降る物語があります。「主の霊があなたに激しく降り、あなたも彼らと共に預言する状態になり、あなたは別人のようになるでしょう。」とあります。「別人のようになる」とは、「become another man」で、人が生まれ変わるような変化を意味します。この「別人のようになる」と言ったサムエルです。サムエルがサウルに言った言葉です。サムエルはサウルを王に即位しようとしました。ある日ミツバというところに民衆を集め、即位式をしようとしました。しかし、肝心のサウルは来ないのです。サウルは、王になることを恐れて、逃げ出し、荷物の間に身を隠していました。サウルは、この世的には立派な人物に見えましたが、本質は、臆病で、命を賭けるという気概もない、弱い人間でした。しかし、主の聖霊を受けて、別人のように変えられる、神から託された使命を果たす存在になると言うのです。

士師記のギデオンも同じ様な実存経験をします。ギデオンは、ミデアン人と戦うために、主に召された時に、人の目を恐れて、酒舟(ぶどう酒を造る樽)に隠れて、麦を打っていました。臆病で、小心者で、自分が神に召されていると言う信仰が分からないのです。しかし、主の霊を受けた時には、正に別人のように変わりました。ミデアン人、アマレク人を撃ち滅ぼすことができました。主の霊が降ると、ギデオンは新しくされ、神の器、神の道具となって、神の言葉を伝える者になったのです。

ペンテコステは、旧約聖書の収穫祭と関係があります。イスラエルの民が、40年の荒れ野の苦しい旅を経て、ヨルダン川を渡り、カナンに定着しました。そこで小麦を営むようになり、小麦が豊かに実を結んだとき、収穫を喜び、神に感謝しました。詩編126:5,6には「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる。」とあります。種を蒔く事は大変な苦労です。しかし、その何倍にも勝る収穫、手ごたえを歌っています。ペンテコステはその収穫とその収穫の祝いと関係があります。

ペンテコステを経験している群れにペトロを初め何人かのガリラヤの漁師がいました。漁師は、自然を相手に一人ですることが多く、孤独で、災難に出会います。「海は裏切ることはない」と言われるように、頑張った分だけ報われます。神に満ち溢れる感謝と喜びを献げることが出来ると言います。現代は働きや仕事から生き甲斐を持つことの難しい社会と言われています。弟子たちの時代もそうでした。彼らは主イエスに招かれて弟子になりました。主イエスに従っていくとき、いろいろな苦難に出会いました。反対や妨害、無理解な人々がいて、孤独でした。種蒔きの喩のように、蒔いても、蒔いても種は実を結びません。種は、固い石地に落ちて芽が出ません。茨の中に落ちて、茨に覆われて芽は伸びません。鳥が来て種を食べてしまいます。砂を噛むような空しい思いをしました。主イエスは信仰の人生は、それで終わらないと言うのです。網を上げた時の手ごたえ、信仰の手ごたえ、永遠の収穫を経験があると言いま。それがペンテコステです。

ヨシュアは、「わたしに霊を与えてください」という祈りを捧げています。ヨシュアが、年を重ねて老人になった時の祈りです。人は年を取ると、自分の過去を振り返ることが多くなる。何を得たか、何を失ったかという価値観で、振り返り後悔し、苦しみます。それは、自分の目から過去を振り返るからだと思います。それは悲惨です。そうではなくて、神の目で過去を見なければならない。神の目で見ると、人の目で見る過去が全く違って見える。何を得たか、何を失ったかという価値観ではなく、与えられた恵みが見えてくる。自分の目に見えないことが、神の目を借りて見れば、輝いて見える。感謝と喜びで満ちて見えると言うのです。その人の人生を神が「よし」と肯定してくださる。それが「聖霊が注がれること」ペンテコステです。