2026年6月14日 「主イエスを見上げて、歩む」 マタイ11:20-29

与えられたテキストはマタイ福音書11:20-30です。バプテスマのヨハネが、捕えられ、入獄しました。ヨハネは獄中で、イエスのことを聞き、弟子を送って、イエスに、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」と尋ねました。すると、イエスは「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしに躓かない人は幸いである。今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、悲しんでくれなかった。』ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると『あれは悪霊に取りつかれている』」と答えた(;16以下)。イエスは「ファリサイ派の人々は頑なで、冷たく、神の言葉に無関心で、無感動で。真実を見ることができない、不信仰である」と言います。

;20に「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。『コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない。』」とあります。この「叱り始める」は「心を痛める、諭す」と言う意味があります。その「訳」の方が「叱り始める、非難を始める」よりも、イエスの信仰。優しさ、赦しが明確になると思います。

「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。カファルナウム、お前は、陰府にまで落とされるのだ。あなたがたの受けるさばきは、ソドムやティルス、シドンが受けた裁きに比べにならない重い罰を受ける。」とあります。この言葉を聞くと、イエスは激しく叱責し、裁きを行う、恐ろしい方であると思います。確かに、ファリサイ派の人々は驚くほど、堕落し、退廃し、頑なでした。そのために厳しく叱責されました。しかし、イエスはそれらを赦す神の愛と優しさを伝えています。「数多くの」は「最大の力」という意味です。イエスは力の限り、全ての力をふり注いで、癒し、愛し、福音を伝えました。しかし、ファサイ人は「悔い改める」ことはありませんでした。「悔い改め」は「メタノイア」で、方向転換」を意味します。言い換えると、「生き方を改める、心の在り方を変える」となります。バプテスマのヨハネが悔い改めを迫り、そのしるしとしてヨルダン川で洗礼を授ける運動を展開しても、「いやあれは気が変になっているのだ、悪霊に取りつかれている」と軽蔑し、心を変え、悔い改める者は無かったと言います。その後を引き継いで伝えたイエスの神の福音と神の国の言葉に耳を傾けることはありませんでした。

イエスは、数多くの奇跡を行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。「コラジン、お前は不幸だ。ベッサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたに違いない。」と言った。この「不幸だ」は、口語訳は「わざわいだ」と、岩波訳は、「禍」と訳しています。ギリシャ語で「ウーアイ」言い、「ああ」という「叫び、呻き声」です。リビングバイブルは「ああ、コラジンよ。ああ、ベッサイダよ」となっています。「悲しみ、辛さから思わず吐き出す「呻き、叫び」に解釈しています。イエスは、命懸けで神の言葉を伝えてきたのに、悔い改める人はない絶望の叫びです。ファルナウムやベッサイダの滅びるのを、見ていることはできないのです。イエスは、その滅びを悲しまれ、痛みを共にします。イエスは、ま滅んでいくのは仕方がない、自己責任と切り捨てたり、割り切ったり、諦めたり、恨んだり、疑ったりしません。主イエスはコラジンやカファルナウムの滅びるのを深く悲しんだのです。イエスは、スプランクゼニサイ・お腹を痛める、激しく心を動かす、腸〈ハラワタ〉を痛めるほど共感されると言うのです。

善いサマリア人のたとえ話があります。強盗に襲われた旅人が道端に放り出されていました。そこを通る人は、皆関わりたくないと、見て通り過ぎて行きます。しかし、善いサマリア人は、傷を負った人を見て、気の毒に思い、近寄り、傷の手当てをし、自分のロバに乗せ、近くの宿屋に連れて行き、「この人を泊めてやってほしい。費用がかかったら、わたしが支払う。」と言われた。旅人、は救われたと言います。サマリア人の善行の原点は、「憐れに思う心」です。「憐れに思い」は「スプランクゼニサイ」異、腸を痛める」という意味です。イエスの善行、救い、憐れみ、愛の原点は、人を見て,はらわた、「スプランクゼニサイ」、心を痛める。心を痛める、そのとき、イエスは声をあげて、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます」と言います。「神をほめたたえた」言います。ルカは「聖霊によって喜びあふれて言われた」と記されています。主イエスはこの最悪な状況の中で、「神をほめたたえて」います。力の限り、全力で、誠心誠意、福音を伝えたのに、カファナウムは拒絶しました。イエスは追い出され、迫害され、軽蔑されました。厳しい状況に立たされています。それでも、にもかかわらず、主イエスは神をほめたたえているのです。「神よ、この頑なな町を滅ぼしてください」と相手の滅びを願いそうです。「なぜこのような頑なな人間をお造りになったのですか」、「なぜこのような人のために、わたしを遣わされるのですか」と呟きたくなります。しかし、イエスには、そのように呟き、恨み、諦めはありません。神をほめたたえています。「ほめたたえる」という言葉は「承認する、告白する」という意味です。つまり、神を唯一の頼りとする、神のみを見上げていく、という意味です。椎名麟三は「人間は絶望の名人だ」と言い、世の現実に絶望しない人はいない。皆失望落胆すると言いました。主イエスは弱い存在である者に命をかけて救おうとしています。主イエスは神を見上げ、歩まれました。わたしたちも神の愛と救いを信じて、神を見上げて歩んで行きましょう