与えられた御言葉は11:28-30です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という言葉があります。原文には「わたし」、ギリシャ語で「ego-」という言葉があります。「わたしの」、「わたしは」、「わたしに」と、わたしが繰り返されています。イエスにしては滅多にないことですが、主イエス自身から、名乗り出ています。イエスの決意、硬い思いの現われだと思います。主イエスは「疲れた者、重荷を負う者、誰でも、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」と、呼びかけています。マタイ福音書は、その優しいイエスの呼びかけに、応えることない頑ななカフェナウムの人々が対照的に描かれています。「誰でも来なさい」と呼びかける主イエスの言葉に、全く耳を貸さないカフェナウム人です。その現実に絶望しないで、疲れている人、悩んでいる人、苦しんでいる人が、わたしのところに来れば、わたしが必ず休みを与える、と叫び続けるイエスです。
主イエスは、群衆が飼い主のいな羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、気の毒に思い、弟子たちを派遣しました。この「気の毒に思う」は、ギリシャ語で、「スプランクナゼニサイ」、と言い、「腸、ハラワタ、お腹を痛める」という意味になり、さらに、「心を痛め、激しく心を動かされ」という意味になります。 主イエスは疲れ果て、不条理な重荷に喘いでいる人々を見て、ハラワタを痛めている。イエスが心を痛め、激しく動かされ、「わたしのところに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげよう。」と言われるのです。
この「休ませる」は、原語は、「新しい、新鮮さを失った者に命の力を与える、力づける、リフレッシュ、勇気づける」などの意味があります。例えば、旅人が砂漠を重い荷を負って、長い旅を続けていたが、途中で水筒の水も飲みほしてしまい、喉は乾ききって、苦しみ喘いでいる。そのとき、新鮮な水が湧いているオアシスを見つけ、そこに腰をおろして、一杯の水で喉を潤し、休息を取る。「これで生き返った」と立ち上がり、再び歩き始める。それが、ここで言う「休み・アナパウシン」です。イエスは、休んで終わり、休むことが目的ではない、再び立ち上がって歩き続けるための休息と言うのです。希望を得る休息と言うのです。
主イエスは、「わたしのくびきを負い。わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われます。「くびきを負いなさい」で、「くびきを外して」ではありません。つまり、イエスは「くびきを負って、安らぎを得なさい」と言うのです。普通、くびきを外して、休息を得ます。くびきを付けられた馬や牛は、夕方、重労働を終え、馬小屋に帰され、「御苦労さん」と言われ、「くびき」を外され、休息を得ます。しかし、主イエスは、くびきを負ったまま、安らぎを得る、と言うのです。くびきを負うことと安らぎを得るは、同時に起こることと言うのです。
漢字の「軛」は、「車編とおさえる」と書きます。この「軛」からは、苦しい、窮屈、不幸を、時には十字架と苦難を思い起こします。しかし、主イエスは、「わたしのくびき」は、人を窮屈にし、苦しめるくびきではありません。主イエスは「わたしのくびきは負いやすい」と言います。この「負いやすい」は、ギリシャ語で「クレーストン」と言い、「役立つ、情け深い、良い、やわらか」などの意味があります。肩の皮がむけるほど食い込む硬いくびきではありません。役立つ、情け深い、優しいくびきです。実際、くびきは、農夫一人で運ぶことができない荷物を、馬や牛に運ばせるための「道具」です。重い荷を運ぶとき、無くてはならない手立て、道具です。くびきがあってこそ、重荷を運ぶことができるのです。換言すれば、人生の重荷と苦難を背負い、生きていく時の最も優れた手立てです。そう考えると、くびきは目に見えるくびきではなく、人が生きるときに役立ち、生きる力、生きる目的と言えます。
旧約時代はくびきを律法と考えていました。イスラエルの人々が、さまざまな苦難に出会うときに、このように生きたら善い、このように歩んだら善い、と道筋を示されました。それが律法です。しかし、長い歴史の間に、律法は人々を疲れさせ、苦しるものになってしまいました。そのとき、主イエスは律法を超えるものを明らかにしました。「わたしが来たのは律法を廃止するためではなく、完成するためである」と言っています。主イエスは「新しいくびき」を与えました。マタイ福音書5章から7章の「山上の説教」にさまざまな、くびきがあります。「何を食べようか。何を着ようか、と思い煩うな。明日のことを思い煩うな。まず神の国と神の義を求めよ。そうすれば、それらは添えて与えられる」と言われます。「天に宝を積め」と教えられました。「神は人に知られない、隠れた働きに報いてくださる」と教えられました。これら主イエスの言葉は、重荷を負って辛くなったときの、生きる意味や希望を失ったときの手立て、生き抜く力、生きる方向の教えとなりました。その意味では、これらの言葉は主イエスのくびきです。人がこの世の重荷を負って苦悩、絶望するのではなく、軽やかに生きるための手立て、道具、道です。「安らぎ」は、「アナパウシン」と言い、「上に」と「留まる」です。翻訳されていませんが、「プシュケー・あなたのいのち、生命、人生」という言葉があります。意訳すると、「主イエスがあなたの人生、生活の上に留まると、安らぎを得る」です。「わたしに学べ」の「学べ」は、「マセチュオー」と言い、「弟子・マセテース」になります。「弟子になる」は、「真似をする」、そうすれば、自分では運ぶことができない人生の重荷を運ぶことができる、軽やかに生きることができると言うのです。
或る方は癌で7回も腸手術をされ、遂に寝っきりになられました。妻や娘の名前も、自分の名前さえ分からなくなられました。あんなに愛してきた聖書も、イエスのことも分からない父親を見て、家族はこんなにも神に仕えてきたはずの父を苦しめて、神っていったいなんだろうか、と、神を疑い、信仰も根底から揺らいだそうです。しかし、ある日のこと、枕元で賛美歌CD「慈しみ深い友なるイエス」をかけると、自分の名前さえ言えなかった先生が、口ずさみ始めた。そして、このことをきっかけに聖書を読んでほしいと訴えてくるようになったそうです。そして、「アーメン」とか、「イエス様、助けてださい」とうわごとのように言うようになったそうです。重荷を負われました。彼も、ご家族も、もう耐えきれないと思うほどの重荷です。どうすることできない重荷に、苦しめられます。しかし、主は、くびきを与え、尚生きることが許されたのです。農夫が運ぶことのできないような重荷を、「くびき」をつけると運ぶことができるようになります。イエスは、人生の重荷を背負って苦しんでいるときに、重荷を運ぶことができるくびきを与えてくださいます。パウロは「わたしはキリストを信じる信仰だけでなく、苦しみをも賜っている」と言っています。そのように人生の苦しみ、重荷を受け入れることができる道を、主は与えてくださるのです。