2026年6月7日 「あなたの信仰があなたを救った」 ルカ福音書7;36-50

与えられたテキストはルカ福音書7;36-50です。一人の女性が主イエスに香油を注ぐ物語です。有名な物語で、四つの福音書にあります。原本はマルコ福音書14章の「ナルドの高価な香油」です。マタイ福音書では26章6節以下に、ヨハネ福音書では、12章にラザロの家で、マリアがイエスの足元に跪いて香油を塗っています。行われた時ですが、マタイとマルコでは、最後の晩餐の前日、つまり、受難週の水曜日です。ヨハネ福音書ではイエスのエルサレムに入城される前日です。この3福音書は、埋葬の準備、十字架の贖いの救い主の告白にしています。それに対して、ルカ福音書は十字架物語とは直接関係のない、イエスの活動の初期の出来事、「罪の赦し」にしています。そこにルカの意図があると考えます。

:40に「イエスは、このファリサイ派の人に向かって『シモン、あなたに言いたいことがある』と言われた」とあります。この「向かって」は、「答える、質問に答える、分ける、分かるように話す」という意味になり、更に論争することを意味します。ここに3回出てくる「ファリサイ派」とイエスの間で論争に用いられています。一般的に言えば、ユダヤ教とキリスト教とが、「罪の赦し」をめぐって論争していることを意味します。イエスの考えとファリサイ派の違いを明らかにし、イエスの「罪の赦し」を明確にしようとしているのだと思います。

;49に「同席の人たちは、『罪まで赦すこの人は一体何者だろう』と考え始めた」とあります。この「考え始めた」は「批判をし始めた、憤りを持ち始めた」という意味です。ファリサイ派の人々は「高価な香油をお金に換えて、貧しい人々に献げるべきだ」と批判しています。叱責の言葉は香油を注いだ女性に、浴びせて始めていますが、しかし、ルカ福音書は、;45に「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分る。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」とあります。ファリサイ派の人々は、この罪深い女の罪は赦されずハズがない。赦してはいけないと考えています。もし、このような女の罪が赦されるなら、神が創造される前の「混沌と深淵の闇が覆う無秩序な世界」になってしまう。イエスの罪の赦しは認められない。この罪深い者が赦されるなら、これまで義を求めてきたファリサイ派としての人生はなんだったか、と。イエスにその憤りを向けています。

ヨハネ福音書8章にも、罪の赦しがテーマになっている物語があります。「姦淫の罪」を犯して、捕らえられた女性の物語です。姦淫の罪はユダヤの律法では赦されない罪です。その問題をめぐって、律法学者やファリサイ派の人々はイエスを陥れようとします。イエスが「赦す」と言えば、律法否定で死罪です。「処刑しない」と言えば、これまで教えてきたこととが無になります。窮地に立たされたイエスは、死を賭して、「あなたの罪は赦された」と宣告し、女性を罪から解放したと言います。イエスは、律法学者やファリサイ派の人々が決して赦さない罪を赦しているのです。しかし、ファリサイ派の人々派は、イエスを赦すことはできません。ファリサイ派や律法学者の信仰は、因果応報、功績のある人は栄誉が与えられ、罪を犯した人は処罰されるという応報必罰です。

ルカは、41節以下に一つの物語を挿入しています。その結びの言葉として、;:47「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」とあります。つまり、「主イエスに赦されたから、愛することができた」と言うのです。言い換えると、「神の赦しが、愛に先立つ」がイエスの考えです。しかし、このイエスの考えは、ファリサイ派の人は受け入れることができません。彼らの考えは「多く愛したから、赦された」です。多くの愛、善行が優先します。それは、「愛さなければ、赦されない」、「赦されるために、愛しなさい、愛さなければならない」と、律法主義、道徳的教えになっていきました。ちなみに、口語訳は「この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである」となっています。しかし、新共同訳は、「多く赦されたから、多く愛する」としました。この訳の方がよいと思います。イエスは、「神に赦されることが全てで、神に赦されることが先で、愛が後だ」と言います。「多く愛したから、赦されるのではなく、神に赦されたから、愛する」のです。パウロは、「愛が先で、赦しが後なら、それは、イエスの十字架を無駄にすること」であると、神の赦し、恵みが先立つと言います。パウロ「今日在るは、神の恵み」と一方的な神の恵みの信仰です。

「あなたの罪は赦された」の「罪」はハマルテイアと言って、「神から離れることです」ことを意味します。「赦す」は「再結合」という意味です。「離れていた者が再び神と繋がる」です。神と繋がる、結びつく。それが「赦し」です。その「神の赦し」が私たちの根源であると言うのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して(赦して)、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と言います。

50節、イエスはその人に、「あなたの信仰があなたを救った」と言われます。普通なら、「主イエスの信仰によって救われた」と表現するところですが、ルカは「あなたの信仰」と言います。そこがルカ的です。「あなたの愛が、正しい行い、善行が」と言いません。この「信仰・ピスティス」というギリシャ語で、「誠実さ、一心」を意味します。「あなたの心、神を思う誠実さ、一心さ」です。私たちの働きや功績ではなく、私たちの心、誠実さ、一途さが救いの根源になるのです。「あなたを救った」。この「救う」ですが、原語は「新しい部屋をあなたの心の中に造る」です。つまり、「神を思うあなたの誠実さ、一途さが、あなたの心の中に新しい部屋を造る」です。新しい部屋、新しい生き方が与えられる。「安心して行きなさい」。「安心」は「元気,勇気」です。「勇気をもって」。「行く」は「前進する、前を向いて進む」です。勇気をもって前に向かって進む。神に罪を赦される結果です。主イエスの言葉に支えられて、前進しましょう。