今日与えられたテキストはマタイ福音書12:15-21です。イエスの旧約聖書のイザヤ書の解釈です。「見よ、わたしの選んだ僕、わたしの心に適った愛する者、この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける。」とあります。イエスは、このイザヤの言葉を用いて、来たるべきメシア、イエスのもたらす救い主を明らかにしています。
:15を見ますと、「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」とあります。「何を知ったか」と言いますと、イエスがファリサイ派の人々が「イエスを殺そうと相談を始めた」ことです。イエスは、或る安息日に入室が禁じられていた会堂に入りました。そこに一人の片手の萎えた人が苦しんでいました。イエスは気の毒に思い(スプランクゼニサイ・腸を傷める)、癒されました。イエスは安息日の律法を破ったのです。ファリサイ派の人々は「安息日に病気を癒すことは、律法違反だ」と、イエスを激しく批判しました。すると、イエスは一つのたとえ話をされました。「あなたがたの内の誰か、羊を一匹持っていて、その羊が安息日に穴に落ちたら、助けない者がいるだろうか。誰も助けようとします。羊でさえ救おうとする。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている。」と言われました。この「大切なもの」は「とは違う、より優れている」という意味です。リビング・バイブルは「人間の価値は、他に比べものになりません」と訳されています。イエスの人権宣言、基本的人権の言葉です。安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない、人間の救いのためには、安息日規定に違反してもよいと言うのです。
ファリサイ派の人々は、律法を絶対化し、律法を破る者を犯罪者と、処罰したのです。しかし、イエスは、人間の救いが第一義であると言う。何よりも人間の救いです。「安息日に善いことをするのは許されている」の「善い」は、「純粋な動機・目的にかなったこと、時宜にかなったこと」などの意味があります。「許されている」は「合法的、法律に違反していない、正当と認められる」という意味です。人間の救いのためなら、絶対化した律法を犯しても善い、正当と認められる、合法であるというのです。勿論、律法を否定しているのではありません。律法の本質・精神を取り戻そうとされたのです。しかし、ファリサイ派の人々は、拠り所としていた律法を否定されたと思い、イエスを生かして置くことはできない、何としても殺害しなければと言うのです。
:15に「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」とあります。「立ち去る」は「退く、後ろを向く、逃げる」という意味です。「逃げる」とは、イエスらしくないと言われるかも知れませんが、イエスは戦おうとしません。民衆の反抗心を煽って抵抗し、反撃しようとはしません。そのイエスの姿の中に、救い主、メシアが語られています。イザヤ53章7節に「苦役を課せられて、屈み込み、彼は口を開かなかった。ほふり場に引かれていく小羊のように、毛を切る者の前を言わない羊のように、彼は口を開かなかった。」とあります。沈黙の救い主です。
イエスが十二弟子を派遣するとき、「一つの町で迫害されたら、他の町に逃げていきなさい」(マタイ10:23)と命じたことを思い起こします。イエスは、世の王が求めるように犠牲を求めません。玉砕や殉教を求めません。「逃避、逃げろ」と言うのです。何人もの病人の病気を癒されました。しかし、御自分のことを言いふらさないように戒めています。この世の王なら、自分の働きを言い広め、宣伝します。しかし、主イエスは、「言い広めるな」と言うのです。自己宣伝しない、自分が目立とうとしないのです。イエスは不思議な救い主です。マタイは、このイエスの行動を見て、旧約のイザヤが預言した救い主だと理解し、信じるのです。
イザヤはバビロン捕囚の一人でした。捕囚の終りごろ、捕囚の民を解放する王が現われました。それはペルシャ帝国の王キュロスです。キュロスは政治的、経済的、軍事的な力を有していました。イザヤは「彼は陶工が粘土を踏むように、もろもろの支配者を土くれとして踏みにじりました。彼は山々を平らにし、青銅の扉をこじ開け、鉄のかんぬきを折ると言っています。たけだけしい王です。相手を打ち倒し、再び立ち上がることのできないほど打撃を与える、力で自分の思いを達成させる独裁者、権力者です。カリスマ的存在で、民衆の心は魅かれていきました。捕囚の民はキュロを「主が油を注がれた人・救い主」と崇めました。しかし、やがてキュロスがメシアではなく、権力と力の王であることが分りました。
イザヤは「違った救い主」を指し示します。「傷ついた葦を折ることのない、消しかかった灯心を消すことのない」メシアです。「見よ」と注意を促していますが、注目しなければならない。救い主は、政治的な武力的な救い主ではありません。救い主イエスは、「王」ではなく、「僕」です。相手を踏みつけることなど決してしません。傷ついた葦のように打ちのめされている人、消えそうになっている灯心のように希望を失っている人、孤独に苛まれている人に、寄り添い、倒れないように支える救い主です。
マザー・テレサは、路上で行き倒れになって死を待つ人の傍らに座り、慰めと励ましを与えました。「あなたは掛け替えのない命をもっている」「あなたがこの世に生きているということは、真に貴いことだ」と。主イエスの言葉を伝えました。そのようにマザー・テレサを生かしたのは、キュロス王、皇帝アウグスト、ヘロデ王の出会いではありません。傷ついた葦を折ることのない、消えかかった灯心を消すことのないイエスの出会いです。恵まれたイエスとの出会いを期待しましょう。