与えられたテキストはガラテヤ5;1-15です。:1節に、「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながられてはなりません。」とあります。:13節には「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」とあります。パウロは「自由」という言葉を二度使っています。ヨハネ福音書18;32にも、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたがたを自由にする。」とあります。この「自由」は、パウロやヨハネ福音書の信仰、教え、キリストの救いを表わす大事な言葉です。
ローマ7;15節以下で、「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、できないからです。かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と言っています。パウロの言葉に深く、共感します。「自由を得させる」の「得させる」は、元来は「束縛から解放する」という意味です。広い意味では、死に至る病、孤独、虚無、絶望からの解放、自由を意味します。
三浦綾子さんは、27歳の時にオホーツクの海岸で自死しようとされた経験があるそうです。戦争の責任を感じ、それまで勤めておられた小学校教師を辞められました。当時不治の病と言われた肺結核に罹り、婚約を破棄する。信じるものを失い、教えるべき生徒を失い、生きる目的を失い、絶望し、オホーツクの海に身を投げようとされました。しかし、不思議なことに、三浦さんは十字架の主イエスに出会いました。;1節の「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださった。」と言う言葉どおり、イエスと心の出会いによって、孤独感、絶望感、虚無感から解放されました。パウロの言う自由です、人間の弱さ、不安、恐れ、絶望からの解放です、「自由を得させる」の「得させる」は、元来は「束縛から解放する」という意味です。ここには「自由」と言う言葉は使われていませんが、内容は「自由」について語っています。
パウロの宣教を妨害し、苦しめたファリサイ派の人々がありました。ファリサイ派の人々は割礼を受けなければならないと信じていました。言い換えれば、「ネバナラナイ」ということに縛られていました。パウロはファリサイ派の人々が、「ネバナラナイ」から解放されることを解きました。柏木哲夫先生は「その人の本当の実力は、物事が順調に進んでいる時には見えにくいが、辛い、悲しい、苦しい、やるせない状況に出会ったとき、どのような態度で、状況に対処できるか。その人の人生の実力が決まる。ネバナラナイ人間、何々をしなければならないを中心に生きるではなく、シタイことを見出していく、『しなければならない』から『シタイ』に帰る。しないではいられない、喜び、感謝を中心に生きる。そういう生き方に変えていきたい。」と言われます。パウロが、割礼の問題で訴えようとしていることは、そのことだと思います。「律法によって義とされなければなあない」と主張する人々がありました。この律法主義を、言い換えれば、業績主義、勝ち抜くことだけを求める、この世的な価値観を絶対化する原理主義となります。パウロは、彼らは、「キリストの十字架を無駄にしている」。「キリストから引き離され、恵みから落ちている。」と批判しています。律法主義者は教会を混乱させ、対立を生み出し、パウロを苦しめました。
三浦綾子さんは、「人間が救われるのは、たった一人でいいから。『あなたは、わたしにとって、なくてはならない存在なのだ』と言ってくれる存在があることだ」と言います。その「たった一人」は、人間に限らない、神、キリストであってもよい。主イエス・キリストは、あなたの今のままを認め、肯定してくれる。その神の絶対肯定が主イエスの救いです。何かをする、良い働きをする、業績を残す。そういうこととは関係なく、ただ、イエス・キリストが、わたしのために十字架に死んでくれた、その神の愛と恵みを信じる信仰の救いです。
パウロは「真理の言葉と神の力とにより、ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分を現している。」と言います。ほめられ、好評を受けても、そしられ、誹謗されても、右に左にそれることはない、傲慢や自己卑下に陥らない。いつもの通り「ちゃんと生きている」「常に真実を語っている」。それが柏木先生の求める人生の実力です。その力は信仰の自由に基づいています。神だけにつながって生きる。何にも囚われない、束縛されないで、神の恵みを受け、自由に生きる力が与えられるのです。
三浦しをんさんは、「わたしたちは、理不尽な、不条理なことに取り囲まれている、それが現実です。しかし、『もっと自由になれる』。そのことを小説を通して、表現していきたい」と言っていました。「もっと自由になれる」、「もっともっと生き生きと生きることができる」。パウロは「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、全ての物を所有している」と言っています。悲しい時には悲しいものです。でも悲しんでいるようで喜んでいれる。頑張りでも、意地でもない。悲しみの向こう側に、イエス・キリストがおいでになられるからです。わたしたちは、今は悲しみに暮れていても、イエス・キリストには悲しみを越える喜びがあることを知っています。その信仰の自由を信じて生きていきたいものです。