与えられたテキストはヨハネ福音書11;1-16のラザロの死の物語です。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身のラザロが瀕死の病気で苦しんでいます。マルタとマリアの姉妹は、ヨルダンの向こう岸のペレア地方にいるイエスのもとに使いを遣わし、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気で苦しんでいます。」と知らせました。この「あなたの愛する者」の「愛する」は「フィレイン」と言います、:11節の「わたしたちの友ラザロ」の「友、友愛、フィロス」と同じ語源です。イエスとラザロとは「愛、友愛」で結ばれていた。マルタとマリアの姉妹は、イエスは友愛に応えて、直ぐに来てくださると思っていました。ところが、イエスは直ぐに来られない。なお二日間もペレア地方に滞在していたと言うのです。
:5節に「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とあります。この「愛する」は「アガパオ―」と言い、神の愛、霊的な愛、無償の愛、自己犠牲の愛」を意味します。イエスは犠牲を厭わないで、ラザロを愛しておられた。「アガパオー、愛」を持っていたのに、ラザロのところに来られたのは、ラザロが亡くなって四日も経ってからです。マルタもマリアも不安と不信に陥っていたと思います。
イエスは、なぜ、直ぐに来てくれなかったのでしょうか。ヨハネ福音書は、「時」に独特な意味を持っています。時、時間は「クロノス」と言い、神の時は「カイロス」と言います。コヘレト3;1に「天の下のすべての事に季節があり、すべてのわざには時がある。生まれる時があり、死ぬに時がある。天の下の出来事にはすべて定められた時がある」とあります。人間の支配を越える神の支配の領域があり、人間が徹底的に謙遜にならなければならない領域があると言うのです。
ヨハネ福音書2;1以下の「カナの婚礼の奇跡物語」では、マリアがイエスに「葡萄酒がなくなりました」と訴えると、イエスは「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません。」と答えています。その「時」は、「カイロス」で奇跡は起こりませんでした。ただ、水瓶に水を汲むように命じられ、行いました。時が来ると、水が葡萄酒に変えられました。それを待つ、それが信仰だと言うのです。その「時・カイロス」は、今は来ていないけれども、必ず来る。神の時は定められている。その事実を信じて忍耐する。ヨハネ福音書では、信仰は忍耐である。希望を持って待つことであると言います
宗教改革者のカルヴァンは、「わたしたちが、神に助けを願う時、神は直ぐに救いの手を差し伸ばされないことがある。しかし、望みを捨ててはいけない。諦めてはいけない。神への期待を持続させなければならない。」と言っています。また、「キリストは、懇望されていながら、しばしば援助を遅らせることがある。それはわたしたちの心の内に祈りと熱意とをかき立てるためである。」と言います。アウグスティヌスは「信仰は、一に忍耐、二に忍耐、三に忍耐、四,五がなくて、六に忍耐」と言っています。或る聖書学者は「現代人は忍耐力を失い、短気で不信の時代になった。直ぐに答えが与えられなければ、信じることができない。」と言う。それは現代人だけの問題でなく、イエスの時代も気の短い、忍耐の弱い、短気な時代で、神を信じ、受け入れる信仰を拒みました。パウロは忍耐を学び、信仰を育てると言います。
:15節に「死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとって良かった。あなたがたが信じるようになるためである」とあります。口語訳は「あなたがたのために喜ぶ」でした。イエスは、ラザロは死んだ。その場に居合わせなかったことを「あなたがたのために喜ぶ」。このイエスの言葉には深い意味があります。ラザロが死んだことを喜ぶ、なぜか? もしそこに居合わせたなら、癒しを願った。しかし、そこに居なかったために、短気にならず、待つ、受け入れ、信じることを学んだ。イエスは、「わたしが来た目的、第一義的なことは病気の癒しではではなく、信じる者になることであると言うのです。
:21節に「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いなすることは何でもかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」とあります。マルタとマリアは、イエスを呼びに行かなかったことを後悔し、悲嘆に暮れ、絶望しています。イエスはマリアとマルタの実存を変えようとされ、絶望と死に打ち勝つ信仰を与えようとされました。イエスは「わたしがその場に居合わせなかったことを喜ぶ。あなたがたが信じるようになるためである」と言われます。この「信じる」は「はじめて信じる」ではなく、もっと成長して、しっかりと信じるようになるという意味です。
イエスが到着した時、ラザロが死んで四日も経って、すでに死臭を放っていました。四日は完全な死を意味し、未来はなくなり、完全な滅びを意味します。イエスはそこからラザロを蘇らせあるのです。ヨナは「わが神、主よ、あなたは命を、滅びの穴から引き上げてくださった」と告白しています。死は、サタンのような力をもって、希望を失わせ、生きる意味を奪います。しかし、イエスは死に打ち勝つ信仰を与えるのです。
:4節「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」とあります。「死で終わるのではない」は、死に向かってはいない、死を超えた生きる希望と勇気に向かわせると言うのです。神の栄光を表わす方向に向かわせる。つまり、イエスを見上げ、イエスを信じ、イエスに希望をおいて生きる。死に打ち克つ信仰を求めて祈りたいと思います。