2026年3月15日 「神の導きを信じて」マルコ9:2-8

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与えられたテキストはマルコ9;2-8の「イエスの姿が変わる」です。主イエスは真っ白に輝く姿に変えられました。そして、主イエスを信じ従う者も終末に変えられる、と言うのです。しかし、変えられるまでには、十字架の苦難を負わなければならない。自分の十字架を負うことを経て、その結果として、栄光が与えられるというのです。その光栄を受けることをペトロたちは信じることができませんでした。主イエスを直接見ることのできないわたしたちは、なお更です。神は、その弱さを理解してくださり、その希望が確かになるために、一瞬ですけれども、イエスの栄光の姿を見せてくださったのです。

パウロは「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」と言っています。信仰者の生涯をマラソンに喩えています。キリストに従う道は、マラソンのようであって、長丁場の戦いがあり、「ゴールの喜びの先取りなしに、苦しみに耐えられない、と言われます。その先取りがなければ、挫折し、敗北し完走できないと言われます。ゴールにある喜び、栄光、幸いを信じる者は苦難に耐え、勝利の喜びを得ると言います。

アブラハムは、神の約束だけを信じて、行き先を知らずに旅立った、と言います。わたしたちも行き先は分ません。どういう道がこの先に待っているのか見当もつきません。しかし、パウロが告げるよに、最終点、到達地点、勝利は知っています。だからこそ、たとえ今どのような所にいたとしても、キリストの道を歩でいることを疑わないで、信じていけます。どんな不遇が、苦難が続いても、神は万事を益としてくださると、信じて、従っていきたい、と思います。八十五年の歩みを振り返ると、その思いを一層強く感じます

マルコ9:2-8には、主イエスが三人の弟子を連れて高い山に登られました。そこで起きた出来事が記されています。突然主イエスの姿が真っ白に輝き、エリヤとモーセと話していているという不思議なことが起こりました。ペトロは興奮して、「先生、わたしたちがここにいるのはすばららしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため。一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」言い出しました。主イエスは、「わたしは仕えられるために来たのではなく、仕えるために来た.多くの人の救いの犠牲になるために来た」と告白しています。しかし、ペトロや他の弟子たちはイエスの告白を理解できませんでした。「これはどういうことか」と首をかしげながら山を降りて行きました。主イエスの真意が理解できないのです。しかし、理解できる方法があります。ペトロが、復活された主イエスに出遭った時に、この変貌の出来事の意味が分かったように、福音書の終わりまで行き、キリストの十字架の死と復活に触れ、そこからこの地点に立ち戻って来ると、この出来事の意味が明らかになります。

この出来事の6日前に、低地のフィリポ・カイサリアという所で、主イエスは、自分がどういうものであるかを明かにしました。「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから、捨てられて殺され、三日の後に復活させられる」ことを告白しました。すると、ペトロは「そのようなことを二度と口にしてはいけない」と、主イエスを叱りつけています。ペトロは主イエスを理解し、信じることが出来ませんでした。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救う」と教えられました。このような教えは、これまで一度も聞いたことがありませんでした。彼らは不安になり、不満を持ち、恐れを抱きました。「弟子たちは非常に恐れていた」とありますが、この「恐れ」とは「迷い」を意味します。「分からなかった」は「生きる方向を失う」ことを意味します。罪はハマルティアと言いまして、「的を外す」言う意味です、生きる意味を喪失することです。ペトロはどこに向かって生きたら良いのか、生きる方向、何を目指して生きていくのか、解らなくなっていました。

その時です、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から、「これはわたしの愛する子。これに聞け」という声がしました。「これに聞け」は「これだけに、主イエスだけに聞け」です。主イエスだけに従え、従って行けば良い、と言うのです。そして、いろいろと困難なことがありますが、忍耐し、従って行けるように、従って行った結果を先取りするように見せてくれたのが、この主イエスの変貌です。暗闇の中に一瞬フラッシュが炊かれると、辺りが明らかになるように、彼らの行くべき道を指し示された。それが今日の主イエスの変貌の出来事です。

主イエスの姿は、「着ていた服は真っ白に輝き、この世のどのさらし職人の腕も及ばないほどの白くなった」と言います。この主イエスの変貌は、十字架の苦難と死の後、甦らされた主イエスの姿を表しています。また、その姿は、わたし達の初穂としての姿です。自分の十字架を背負い、主イエスに従って生きる者の、最後の、終末論的な姿、私たちが与ることが出来る姿、栄光の姿です。自分の命を得るためでなく、福音のために、主イエスのために生きたいと志した者の姿です。神は弟子たちが疑い、迷うことのないように、その栄光を見せてくれたのです。

わたしの郷里は田舎ですが、富士山の頂上を眺める事が出来ます。何時見ても富士山は綺麗ですが、印象に残っているのは、辺りはまだ薄暗いのに、富士山の山頂だけは朝日を浴び赤く染まっているという光景です。地上は夜明けの前の闇が覆っているのに、その山頂は、朝の光が溢れている。地上と山頂は、鮮やかなコントラストをなしています。それは、今日の聖書を象徴しています。地上は薄暗い闇に覆われていますが、すでに山頂は光り輝いている。その山頂に登るためには、闇の中を歩いていかなければならない。途中で何が起こるか分からない。疲れて登ることは難しいと思えることもある。その闇の中で、幸運にも光輝く山頂を眺めることが出来る。その山頂に立てば、それまでの苦しみを忘れさせてくれる、喜びがある。それを想像できるから、今の苦しみに耐え、登って行くことができるのです。

以前マラソン・ランナーの君原と言う人のインタビューを聞いたことがあります。彼の時代は、現代のような、科学的なトレーニングが導入されていないので、ひたすら持久力と精神力を鍛えた時代です。「途中で辛くて、やめたくなりませんか。そういう時どうやって持ちこたえるのですか」と尋ねると、「辛いですよ。でもゴールの喜びを想像し、その映像を脳裏に浮かべて走ります」と答えていました。この言葉は、今日のテキストを理解するのに、一つのヒントを与えているようです。主イエスは真っ白に輝く姿に変えられました。そして、主イエスを信じ、従う者は、変えられる、と言います。しかし、変えられるまでには、自分の十字架を負う、苦難があります。自分の十字架を背負うことを経て、その結果として、与えられる栄光です。しかし、その光栄を、ペトロたちは信じることができませんでした。主イエスを直接見ることのできないない私たちは、なお更です。神は、その弱さを知っていてくださり、その希望が確かになるために、一瞬ですけれども、その栄光の姿を見せてくれたのです。

パウロは「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(フィリピ3:13-14)と、信仰の生涯を長距離走に喩えています。キリストに従う道は、登山やマラソンのようであって、長丁場の戦いがある。「ゴールの喜びの姿」なしには持ちこたえられない。そのヴィジョンがしっかりとインプットされていなければ、と言います。ゴールにある喜び、栄光、幸いを私たちは信じていきたいと思います。アブラハムは、神の約束だけを信じて、行き先を知らずに旅立って行きました。私たちもある意味では、行き先はわかりません。どういう道がこの先に待っているか、見当もつきません。しかし、最終地点、終末は知らされています。だからこそ、たとえ今どのような所にいたとしても、キリストの道を歩んでいることを信じていけます。どんな不遇が続いても、神は万事を益としてくださる、神の導きを信じて、従っていきたい、と思います。