2026年3月8日 「仕える幸い」ヨハネ12:1-8

与えられたテキストはヨハネ12;1-8節です。イエスにベタニアで香油が注がれる物語です。平衡記事は、マルコ14;3-9、マタイ26;6-13節です。マルタは、らい病人のシモンの家に夕食に招かれました。;2に「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた」とあります。この「給仕をする」は、ギリシャ語で「デイアコイネー」と言い、「仕える」という意味で、名詞になると「奉仕者、僕」となります。マルコ10;43に、イエスの言葉、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。わたしは仕えられるためではなく仕えるために来た。」があります。その「仕える者、僕」に用いられています。イエスは「仕えられる者ではなく、仕える者になりなさい」と言い、「仕える」ことに真の命と真理があると言います。 

ルカ10;38節以下には、イエスがマルタと姉妹のマリアの家を訪ねたことが記されています。マルタはイエスの接待に心を使い、忙しく働いています。ところが、マリアは、何も手伝わないで、イエスの傍に座って、イエスの話す言葉に聞き入っていました。マルタは何も手伝わないマリアに不満を持ち、「自分はこんなに忙しく働いているのに。マリアは何もしません。マリアに手伝うように言ってください。」と、イエスに言いつけました。マルタは働く自分は正しいという思いとマリアは間違っているという思いがあり、マリアを裁きました。しかし、イエスはマリアを認め,肯定しました。「手伝う」は、ギリシャ語で「デアコイネー」と言って、「仕える、給仕する」という意味です。イエスは「仕えられるではなく、仕えることに本当の命と真理があり、イエスの言葉を聞くことは仕えることであり、イエスの言葉を聞くことは信仰の本質があると言います。コリントⅠ15;9、10に「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」とあります。パウロも神の恵みによって生かされていると告白しています。マリもイエスに出会い、イエスの言葉を聞き、人格に触れ、イエスの言葉に真理があると信じることによって生きることができるというのです。

ヨハネ福音書は、12章1節以下で、マリアがナルドの香油をイエスの足に塗り、髪の毛で拭ったことを記しています。マリアの振る舞いを見ていた弟子の一人で、イエスを裏切るイスカリオテのユダは、「『なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。』と言った。」とあります。ユダはマリアの振る舞いは愛に欠けていると批判しました。また、女の人が髪の毛をほどくことは、恥ずかしい、ふしだらなことであると憤慨し、腹を立てたと言います。しかし、マリアはユダの批判や嫌悪を恐れることなく、髪の毛で拭ました。マルコ14;9には、「はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人のしたことは記念として語り伝えられるだろう。」とあります。マリアの信仰、確信、一途さ、誠実さを讃えています。

ヨハネ9;1以下に、生まれつき目の見えない人がイエスによって、目が開けられる物語があります。その人は目が開けられた後、ユダヤ人の議会に引き出され、証言を求められました。もし、イエスに癒されたと証言すれば、厳しく罰せられ、追放されます。だれも追放を恐れて、イエスに癒されたと証言する者はいません。しかし、彼は「イエスはわたしを癒されました」と証言しています。9;8に「『これは、座って物乞いをしていた人ではないか』と言った。『その人だ』という者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う者いた、本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「ではお前の目はどのように開いたのか」と言うと、11節に「彼は答えた。『イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」とあります。「わたしは癒された。わたしがそれだ」と訳されます。誰が中傷し、非難し、攻撃しても、「わたしはいやされた」と事実を証言する、事実は変わりません。わたしは事実を証言しますというのです。

ヨハネ12;7には、「イエスは言われた。『この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。』」とあります。「するままにしておく」は、ギリシャ語で「アピエミー」と言い、「許す、肯定する、是認する」という意味です。イエスは、人々を激怒させたマリアの振舞いを肯定します。ファリサイ派の人々は、マリアに対して、貧しい人を愛していない。愛すると言いながら、なんの行動も取らない、抽象的な愛しかもっていないと批判し、攻撃しました。マリアは窮地に立たされました。しかし、イエスはマリアを「善し」と肯定しているのです。人が「香油が無駄になる」と言おうと、わたしはあなたを「善し」と肯定するというのです。  

その後を見ると、マリアは自由に毅然として生きています。イエスの肯定が、マリアをマリアらしく生かしたのです。イエスの十字架の死の贖いよって、マリアは生まれ変えられました。

ラザロもイエスの食事に招かれています。しかし、ラザロは、マルタやマリアのように、何の働きもしません。一言葉も語りません。沈黙しています。イエスによって墓から蘇らされたのですから、その喜びを証しすべきだと言われます。しかし、ラザロは黙して語りません。イエスと共にいるだけで証しているのです。「to doでなく、to  be」存在することに意味がある。to do、何事かをして役立つからではない、to be、存在することに意味があると言います。

或る方が「年とともに身体も弱わり、奉仕ができなくなってきた。申し訳がない。さびしい孤独だ」と、浅野順一先生に訴えたそうです。先生は、「教会の礼拝に共に連なること、礼拝に出席し、御言葉の恵みに与る。これ以上の奉仕はない。わたしはあなたがそこに座っておられることで、語る勇気が与えられている」と答えています。

ホイベルス神父に、「最上のわざ」という詩があります。「この世の最上のわざは何か。楽しい心で年をとり、働きたいけれど休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望をもち、従順に、平静に、おのれの十字架を担う。若者が元気いっぱい神の道を歩むのを見ても、ねたまず。人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。老いの重荷は神の賜物。古びた心に、これで最後のみがきをかける。まことの故郷に行くために。おのれをこの世につなぐ鎖をすこしずつはずしていくのはまことに偉い仕事。こうしてなにもできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。神は最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手はなにもできない。けれども最後まで合掌できる。主と共にある喜びを喜びとする、それだけで十分だと言う」と記されています。イエスの十字架の苦難を思い、手を合わせ合掌する、それで十分だというイエスの言葉を謙虚に受け入れたいと思います。