2026年3月22日「十字架の道を選ぶ」マルコ10:32-45

与えられたテキストはマルコ10:32-45、主イエスが、十字架を目前にして、与えられた神の使命を明らかにし、その受諾について述べています。主イエスの十字架の道を選ぶ決断、固い自覚、信仰について語っています。それに対して、弟子たちは全く無関心です。原文では、七つの動詞、「宣告する、引き渡す、侮辱する、唾をかける、鞭打つ、殺す、復活する」の七つ動詞が用いられています。その動詞に、カイ、andの接続詞が用いられ、配列されています。七つの動詞をカイの接続詞で繋ぐことによって、主イエスは十字架の苦難を神の意志として受け入れ、神の必然と積極的に受け止めたことを表わしています。それに対して、:35-45では、「しかし、de」の接続詞が三度使われています。それでもって、弟子たちと主イエスの間にある断絶がを表しています。弟子たちの願いと主イエスの望みには、本質的に折り合いがつかないものがあると言うのです。

弟子のヤコブとヨハネは、主イエスの十字架の受難には全く無関心で、自分の出世に夢中になっています。主イエスが栄光を受ける時に、あなたの「右」に、あなたの「左」に着かせて欲しいと願っているのです。それを知った他の弟子たちは、腹を立て、「自分たちもお願いに行こう」と言うのです。それに対して主イエスは、「異邦人の間では、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に茂野は田の間では達しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上にになりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」と言いました(マルコ10:42-44)。「仕える者・ディアコニア」は、世話をする、奉仕するという意味です。「すべての人の僕に」の「僕」も、「デオー・縛る、仕える、服従する、奴隷・ドゥーロス」という意味があります。縛られる、奴隷になる、という意味です。ペトロⅠ2:18に、「召し使たち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人だけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みとわきまえて苦痛に耐えるなら、それは御心に適うことなのです。」とあります。奴隷はお金で買われた者です。一つとして、自分の思い通りにすることはできません。自分の主人の意思に服従して生きる存在です。

現代は格差社会、勝ち組と負け組と言われる時代です。富める者と貧しい者の格差は拡大している時代です。誰もが勝ち組にならなければならないと思っています。名古屋大学の速水敏彦さんの「他人を見下す若者たち」という著書に、負けたくない若者のことが記されています。若者に限らず、何千億、何百億円儲けたとか、会社買収で莫大な利益を得たとか、恐るべき力を持った若者が出てきます。逆に、奇異な行動の取る若者、怒りの感情を直ぐに爆発させる若者がいます。速水先生は、「彼らの心の中に他人を見下す意識がある、自分以外は愚かと思い、いつも自分より下を必要とし、他者を軽視している。中原中也の「汚れっちまった悲しみ』を引用して、彼らは人間の穢れ、罪に気付かない。」と述べています。勝ち組みにならなければならない。一段でも良いから人の上に立つことを求めています。そのような時代の中で、主イエスの言葉は、どのような意味を持っているのか考えさせられます。

ヤコブも他人を見下し、偉くなりたいと思う若者、権力志向の若者でした。ヤコブは主イエスを悲しませ、傷つけました。しかし、ヤコブは生まれ変わっています。ヤコブは、ヘロデ王の剣よって殺されます。当局によって、「二度と主イエスのことを教え、伝え、語ってはいけない。もし犯すなら、命はない」と脅されました。しかし、ヤコブは「あなたがたに従うよりも、主イエスに従うことが真実だ」と、ヘロデ王の脅しを恐れず、主イエスの福音を伝えました。そのためにヘロデ王の剣にかかり、殉教の死を遂げました。(使徒言行録12章).「あなたが栄光を受ける時には、あなたの右に座らして欲しい」と願って、主イエスの心を痛めたヤコブです。「他のだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と、答えています。ヤコブは生まれ変わったように変えられています。生まれ変わることができるのです。主イエスは弟子たちの前で、真っ白に輝き、栄光の姿に変えられました。同じ様に、わたしたちも変えられるのです。パウロは「内なる人は日々新たにされる」と言います。その言葉を信じて,受け入れて行きましょう。主イエスは、「自分は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を奉げるために来たのである」と告白しています。「身代金」とは、誘拐事件などでよく聞く言葉です。犯人が人質を解放する代わりに求める代金です。人質なった者は、誰かがお金を払ってくれなければ、解放されません。いつ殺されるか分からない恐怖と絶望の中に置かれています。その時、身代金を払ってくれる者が現れました。そして、彼は解放されたのです。この贖い主こそ主イエスです。主イエスが身代金を払ってくださるのです。このわたしの罪を赦し、解放し、自由にしてくださるのです、この何の価値も無い者が解き放たれるために、犠牲になってくださるのです。

弟子たちは、後になってですが、その事実が分かりました。「出世をさせてください、名誉を与えてください」と的外れの願いを言っていた、どうにもならない、処罰される者のために身代金を支払ってくれる方であることに気付いたのです。彼らは、主イエスによって、罪から解き放たれた者として生きていこうとしました。人生を組み立て直しました。主イエスの信仰に立って、もう一度自分の残りの人生を組み立て直しました。わたしたちも、信仰の原点に立って、立ち直して、主に向かっての歩みを始めたいと思います。主を見上げ、到達点の主イエスを目指して、歩みを始めましょう。