与えられたテキストはエゼキエル書3:1-11とルカ福音書19;1-10です。エゼキエル書3章1、2節に、「彼はわたしに言われた。『人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい』、2節に「わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。」とあります。エゼキエルが預言者に召命された経験を黙示的な言葉で表現しています。例えば、エゼキエルが神の言葉を「聞く」というところを「食べる」と表現しています。神はエゼキエルに直接語りかけ、エゼキエルは主体的に受け取る、それが信仰の本質であるというのです。ルカ福音書14章16節以下には、「そこで、イエスは言われた。『ある人が盛大な宴会の時刻になったので、僕を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かなければなりません。どうか、失礼させてください』」と言った。ほかの人は『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことはできません』と言った。僕は帰って、このことを主人に報告した。」とあります。イエスに招きを受けた人々は皆断っています。しかし、弟子たちはイエスの招き、御言葉に応えて従いました。つまり、信仰の本質的はイエスの御言葉を聞いて、従うことであるというのです。エゼキエルはその事実を御言葉を食べると表現しているのです。
「わが涙よ、わが歌となれ」の著者である原崎百子さんは肺癌のために、4人の子どもを残し、43歳で亡くなられました。自分の病いが癌と知りつつ、最期まで、希望に満ちた生き方を遺されました。その手記が出版されています。死は永遠の命につながる希望であり、愛は永遠であるというメッセージを残して逝かれました。「彼女が苦難と試練の中を、あのように永遠の命に満ちて生きたか。その秘密は、神に召されたという信仰だと思う。」と手記の後書きに信仰の友が著しています。原崎百子さんは国際基督大学を卒業され、東京神学大学で学ばれました。国際基督大学の学生時代の礼拝で、神に自らを献げると神と契約を交わしたと告白されています。神は、その告白を守り、完遂しようとしてくださっていると、亡くなられる直前に記しています。原崎百子さんの人生は、神との約束の上に人生を築かれていたと思います。預言者エゼキエル的表現に従えば、御言葉を食べて、その生涯を生き抜かれたと思います。
3節に「言われた。『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」とあります。言い換えれば、神の言葉を預かる者が、与った御言葉を語り、伝える使命がある、その使命に生きる事実を言っていると思います。
4節に、「主はわたしに言われた。『人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉を彼らに語りなさい』」とあります。イスラエルの家、イスラエルの人々は神の言葉に聞き従わなかったために、バビロン捕囚の苦難の中におかれたというのです。
7節に、「しかし、イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない。ことに、彼らはわたしに聞こうとしない者だ。まことにイスラエルのすべて、額も硬く心も硬い。」とあります。「心も硬い」とは、文字通り、固い、石の心のことで、頑な心、冷たい、無関心、硬直した心のことです。イスラエルの人々は「神は苦難を負わせた」と神を恨み憎んでいました。エゼキエルも、ニネベに遣わされたヨナのように、神を憎み恨むイスラエルの人々に遣わされたと自己理解しているのです。エゼキエルはバビロン捕囚の一人でした。南ユダはバビロン軍のネブカドレツァルとの戦に敗れ、時の王ヨヤキンや上層階級の者は捕囚民としてバビロンに連行されました。エゼキエルは、それから5年目に(BC592年)、ケベル川の河畔で、預言者として召命を受けました。そして、更に、それから5年後。二回目の捕囚が起こりました。バビロン軍はエルサレムと神殿を破壊し、ゼデキヤ王の両眼をえぐり出し、王子たちを殺害し、重立った人々と共に、多くの人たちを鎖に繋ぎ、バビロンに連行しました。
エゼキエルはエルサレムの破壊と捕囚を予感し、たびたび、「神に立ち帰って、悔い改めなければならない」と警告しました。しかし、頑なな、石の心のイスラエルの人々はエゼキエルの言葉に耳を傾けることはありませんでした。エゼキエルは滅亡を恐れ、怒り、絶望しました。2章6節に「人の子よ、あなたはアザミと茨に押しつけられ、蠍の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。またその言葉を恐れてはならない。彼らが反逆の家だからといって、彼らの言葉を恐れ、彼らを前にたじろいではならない。たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。」とあります。エゼキエルに神の言葉を語る勇気と希望を与えています。
3章10、11節に、「更に主は言われた。『人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れおきなさい。そして捕囚なっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい」とあります。エゼキエルは、ユーフラテス川の支流のケバル河畔で、神の栄光を見せられ、神との出会いを経験しました。ヨハネ福音書15章16節に、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、」とあります。神に召されたという信仰、使命が、エゼキエルの預言者のすべて、原点であることが分ります。
ルカ新約聖書19章に徴税人ザアカイ物語が記載されています。ザアカイは神の導きよって、イエスと出遭います。イエスと出遭った後、「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。」と約束します。イエスに出遭って、ザアカイの生き方は180度変えられました。その後の彼の人生は、この出会い、原点の上に築かれました。牧ノ原やまばと学園の長沢巌牧師は、青年時代、盲腸から腹膜炎を併発して、死を宣告されました。その時、長沢牧師は、「もし、生命を与えられるならば、神様にこの生命を献げます」と誓ったそうです。その時、不思議にも、奇跡的に死を免れ、命を得ることができたそうです。その後の長沢牧師の生涯は、その誓い、約束の上に築かれています。長沢巌牧師、原崎百子さん、エゼキエル、ペトロは自分の信仰と存在の原点を持っています。事が在るごとに神と交わした約束を思い起こし、約束を信じて、従って行きたいと思います。