今日はイースター礼拝です。イースターは教会にとって最も大切な日ですが、クリスマスとは違って、世に知られていないのも事実です。それは、イエスの復活が歴史的な出来事として認められないところにあるのではないかと思います。イエスの十字架は歴史的事実として認められるが、復活は理性や経験を越えているために、受け入れられないのではないでしょうか。
使徒言行録17章によると、パウロが哲学の町アテネに伝道に行きます。アテネ人は、初めはパウロの説教を聞いていましたが、説教がイエスの復活になると、「もうその話はいい、またの機会にする」と言って、パウロの説教をさえぎって立ち去ってしまいました。イエスの復活を認めることができなかったと言うのです。
ユダヤの王アグリッパも、パウロの証言が、イエスの復活になりますと、「お前は学問のし過ぎで、頭がおかしくなったのだ」と、説教を聞こうともしません。当時の学者、権力者、勿論、一般の人々もイエスの復活を受け入れることが出来ませんでした。しかし、パウロは「キリストが復活しなかったなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄だ」と、イエスの復活は私たちの信仰にとって根源的、かつ究極的な事柄であり、合理的、科学的に実証できない、主体的に信じる事柄だと言うのです。勿論、合理的に実証できない事柄だから意味がないと言うのではありません。コリントの信徒への手紙Ⅰ15章54節に、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちの勝利を賜る神に、感謝しよう」とあります。復活信仰は死に対して決定的な勝利をもたらす究極的な力であると言うのです。
カール・バルトは、バーゼル大学神学部で教えながら、刑務所で礼拝説教をしていました。ある年のイースターに刑務所礼拝に行きますと、いつもそこに座っているハンスという政治犯の姿が見えませんでした。バルトは刑務官に事情を聴きますと、気分がすぐれず、礼拝に出たくないと言うのです。バルトはそれを聞き、収監室に行き、ハンスに会い、「今日は、イースターです。イエスが復活されました。さあ、礼拝に行きましょう」と誘いました。すると、ハンスは憂鬱そうな顔をして、うつむいていましたが、椅子から立ち上がって礼拝堂に向かい、参加したそうです。その説教の中で、バルトは「われわれは厳しい情況に遭遇し、不条理と矛盾の下に置かれている。しかし、力強く、落ち着いて、ポジティブに、ユーモアをもって自らの業をなしていこう。イエスの復活を信じる信仰から生み出される力と希望に与ろう」と言って、慰め励ましたそうです。
ヨハネ福音書20章には、復活の主イエスに出会ったマグダラのマリアについて記しています。マリアは日曜日の朝早くイエスの納められている墓場に駆けつけ、墓の中を覗くと、墓はカラでした。イエスが十字架につけられ,息を引き取られた、それだけでもショックなのに、大事なイエスの亡骸もないと言うのです。彼女は泣き崩れ、立ち上がることが出来ませんでした。天使が、「婦人よ。なぜ泣いているのか」と声を掛けると、マリアは泣きながら「わたしの主が取り去られたのです」と言いました。そして、後ろを振り向きました。すると、そこに復活の主イエスが立っていました。しかし、マリアは立っている人が復活された主イエスであることが分かりませんでした。しかし、不思議なことが起こります。復活の主イエスが「マリア」と呼びかけられると、マリアは振り向いて「ラボニ・先生」と答えています。立っているのが復活の主イエスであることが分かったと言うのです。この物語は象徴的です。
マリアは、七つの悪霊に取り付かれた女と言われ、空虚で刹那的な生き方をしていました。その罪深いマリアがイエスに出会い、その時から、マリアはイエスを「師」として、常にイエスを自分の前に置き,従ってきました。イエスは彼女にとって生きる目標、模範でした。しかし、イエスの十字架の死によって、自分の前に立つイエスを失って絶望してしまいました。マリアは立ち上がることができず、泣き続けているのでした。前に立つイエスを求め、イエスの後に従っていくという関係の中では、復活の主イエスを知ることができないと言うのです。復活の主イエスはマリアの背後に立ち、背後からマリアを支え,寄り添ってくださる方であると言うのです。わたしはここにいる。あなたを背後からしっかり支えている。安心して委ねなさいと言っているのです。復活の主イエスは「マリア」と、名前を呼んで呼びかけ、背後から支え、立ち上がらせてくださる方です。
マリアは復活の主イエスが背後に立たれる方であることを知ると、今度は主イエスに押し出されて、弟子たちの所に赴き、「わたしは主を見ました」と告げています。生まれ変わりように新しくされ、新しい歩みを始めています。主イエスは、私たちが新しい命を受け、希望に生きるために甦られたのです。復活の主イエスを信じる時、どのようなことに直面させられても、失望落胆することなく、究極的希望と勇気をもって生きていくことができるのです。
私たちは貧しくなることがあります。乏しくなることがあります。仮になかったとしても貧しくなるのではないかという思い患いが起きます。私たちはこの人生で、いつどんな目に遭遇するか分かりません。しかし、この矛盾と不条理に満ちた世の中で一つだけ変わらないことがあります。それは主イエス・キリストが死から甦ららされ、背後に立って、支え寄り添ってくださるという事実です。その事実を信じて力強く歩んでいきたいと思います。