与えられたテキストはルカ福音書11章37―44節です。ある日、イエスがファリサイ派の人々から食事に招かれ、食事を始めると、ファリサイ派の人々は激怒したと言うのです。38節「イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て,不審に思った」とあります。この「身の清め」は、ギリシャ語で「バプティゾー」と言い、バプテスマの語源で、水で身体を洗うことを意味します。この「身の清め」は、ユダヤ人の間で昔から守られてきた律法、伝統、慣習を意味します。勿論、ファリサイ派の人々は清めの律法・慣習を忠実に守っていました。しかし、主イエスは守らないで、身を清めないまま食事を始めたと言うのです。なぜイエスは守らないのか。身の清めの律法は体を清めるが、内面を清めることはできないと言うのです。39節に「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている」とあります。「強欲」とは、心の奥底にある「貪り」のことです。「悪意」とは自分の力では処置できないで、心を歪める「妬み」のことです。イエスは人間の内側にある貪りと妬みは、清めの律法・伝統・慣習では、清めることはできないと言うのです。
ファリサイ派の人々の宗教は、昔からの教えや律法や慣習を厳格に守ることでした。その意味では非常に律法的、道徳的、保守的でした。彼らは昔の教え・律法・慣習を何の抵抗もなく受け入れましたが、何が本質的なことであり、何が非本質的なことかを主体的に判断することはありませんでした。また、神との交わりよりも、人間中心の交わり、伝統と慣習を重んじました。社会学者のリースマンは、そのような人を「他人指向型人間」と言います。彼らは常に他者に喜ばれようとし、人に喜ばれることが目的となり、その結果自分自身を失い、自分が何をしたいのかが分からなくなり、在りのままの自分を生きることができなくなると言うのです。それに対して、リースマンは、他人に喜ばれることよりも、神に喜ばれることを第一義にする人を「神指向型人間」と言っています。そして、イエスは神指向型人間、神との垂直の関係を第一義にすることを求めていると言うのです。より本質的なことは、水平の関係ではなく、垂直の関係、神との関係であると言うのです。
42節に「それにしても、あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。薄荷(はっか)や芸香(うんこう)やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ」とあります。「おろそかにする」は、「見過ごす、見て見ないふりをする」という意味です。彼らは全収入の10分の一を忠実に捧げるほど、律法に熱心なのに、肝心な正義と神の愛は見過ごしていると言うのです。言い換えると、律法で定められている十分の一の献納は、人に見られている行為です。彼らはそれを第一義しているのです。つまり、人にどう見られているかが、彼らの最も大きな関心事であったわけです。ファリサイ派の人々は、内面のことよりも外面的なことに心を使い、内側を清めることを求めないと言うのです。
43節に「あなたたちファリサイ派の人々は不幸だ。会堂では上席に着くこと、広場では挨拶されることを好むからだ。あなたたちは不幸だ。人目につかない墓のようなものである」とあります。この「あなたたちは不幸だ」と言う言葉ですが、本来は「本質的な事柄に気付かない鈍さ」を意味します。会堂で上席に座ることや、広場で挨拶されることを喜びとするために、内面の喜びに鈍感になっていると言うのです。イエスはファリサイ派の人々が熱心で、真面目で一生懸命であることは認めています。しかし、その向かっている方向が違っていると言うのです。「罪」は、ギリシャ語で「ハマルティア」と言い「矢が的を外す」と言う意味です。目的地に向かっていると思っているのに、的を外している。逆の方向に向かっている、それに気付かない鈍感さが罪・ハマルティアであると言うのです。
もう一度41節に戻ります。「ただ、器の中にあるものを人に施せ。そうすれば、あなたがたには全てのものが清くなる」とあります。口語訳聖書では「ただ、内側にあるものをきよめなさい。そうすれば、いっさいがあなたがたによって、清いものとなる」となっています。先程、申し上げましたように、「内側にあるもの」とは「貪りと妬み」のことで、神から離れ自己中心・エゴイズム、罪を意味します。その罪を清めなさいと言うのです。言葉を換えて言えば、自分自身は本来神のものであるという信仰に立つことです。自分自身を神に帰し、自分自身を神に明け渡し、委ねることです。
コリントの信徒への手紙Ⅰ15章10節に「しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである」とあります。一方的に神の恵に生かされている自分、神のものとされた自分を受け入れること、先程も申し上げましたように「神指向型人間」になることを意味します。自己中心ではなく、神中心に生きる。その時、どのような人生にも神の計画があること、神の恵みと賜物で生かされていることが解ると言うのです。この不条理と矛盾に満ちたこの歴史に、この世の中に、人生に、神の支配があることを信じて生きる時、全ての恐れと不安から解放されて生きていくことができると言うのです。カルヴァンは、「人生の主たる目的は何か」と言う問いに、「それは神を知ることである」と答えています。別の言葉で言い換えれば、全てを神の栄光に帰して生きると言うことになります。これも神の栄光のため、あれも神の名誉のためと思って生きることです。神に栄光を帰す、神の名を高める、そのことだけを求めて生きていくところに、永遠の慰めと希望があるのではないではないでしょうか。