与えられているテキストはルカ福音書12章22-34節で、「思い煩うな。野の花を見よ」という教えで、よく知られている箇所です。平衡記事のマタイ福音書6章25-34節を比較して見ると、32節の「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」という言葉はルカ福音書だけにしるされている独自の言葉であることが分かります。その意味では、この「小さな群れよ、恐れるな」は、ルカ的信仰がよく表現されている言葉だと思います。
ルカ福音書の著者ルカは、パウロと共に福音伝道に生涯を捧げました。小アジアの山岳都市やヨーロッパのギリシャの各都市に福音伝道を行いました。その福音伝道の労苦についてはコリント信徒への手紙Ⅱ11章には、「苦労したことはずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度、鞭で打たれたことが三度、石を投げられたことが一度、難船したことが三度。苦労し、骨を折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」と記されています。この「小さな群れよ、恐れるな」は、ルカやパウロの信仰の原点になっていました。苦難や試練に出遭った時、「恐れるな。小さな群れよ」という御言葉を聞き、伝道の勇気と希望が与えられたのです。
この「恐れる」という言葉ですが、ギリシャ語では「フォボス」と言い、「逃げる」という意味です。ちなみに、日本語の「恐れる」は、「おおそれる、大きくそれる」という意味です。本来は「逃げ出す、回避する、人間本来の在り方から逸脱している」という意味です。その意味では「罪」と似ています。「罪」は、ギリシャ語で「ハマルティア」と言って、「的を外す」と言う意味で、本来向かうべき目的から逸れて、別の方向に向かっている。神に造られた人間として本来歩むべき道があるのに、そこから外れていることを意味します。その意味では、罪は誰もがもっている本質的な問題です。「恐れ・フォボス」も臆病で弱い人だけの問題ではなく、全ての人間に関わる本質的な問題です。その恐れと不安から解放されなければ、真の平安を得ることはできないと言うのです。
或る中学校の先生は、「今の子供たちは競争社会の中で大変苦悩している。学校に行けば、できる子、できない子に、良い子、悪い子に振り分けられる。恐れと不安のために学校に行けない子供が増えている。本質的な問題は、子供たちが恐れから解放され、真の平安を得なければならないと言うことです」と述べています。先生が言われるように、恐れと不安は人間存在を歪め、本来の在り方から逸脱させます。イエスは、わたしたちが恐れ、思い煩う存在であることをよくご存知です。ですから、何度「恐れるな。思い煩うな」と励ましてくださいました。例えば、イエスを身ごもって恐れ戸惑うマリアに向かって「マリア、恐れることはない」と呼びかけています。口を利けなくされたザカリアに対して、「恐れることはない、ザカリア」と命じています。イエスに出会って驚愕するペトロに向かって、「恐れることはない。今から後、あなたを人間をとる漁師になる」と慰めています。激流のヨルダン川を前にして、恐れ戸惑うヨシュアに向かって、「恐れてはならない。おののいてはならない。あなたの神、主が共におられる。」と勇気づけています。イエスは「恐れるな。恐れることはない」と何度も声をかけ、恐れの中から立ち上がることを促しています。
32節の原文を直訳すると、「恐れるな、小さな群れよ。あなたがたの父は喜んで神の国をくださるから」となります。「恐れるな」が文頭にきています。「恐れるな。」を強調されるためです。何とかして、弟子たちの心の中から「恐れ、思い煩い」を取り除かなくてはならないと思ったわけです。また、原文には「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」の文頭に「・・・から」、ギリシャ語で「ガル、・・・故に」を表す前置詞があります。つまり、「あなたがたの父、神は喜んで神の国をくださる。だから、恐れるな、恐れることはない」なります。恐れる必要のない理由を明らかにして、「恐れるな、小さな群れよ」と言うのです。「神は喜んで神の国をくださるから」の「神の国」は「神の支配」のことです。出エジプト記によれば、神は「わたしはいる、という者である」と名乗っています。神は、どこに行っても、どこに置かれても共にいて、支えてくださる。だから、恐れなくて、不安にならなくてもよいと言うのです。恐れなくても良い理由を述べて、「恐れることはない、恐れる必要はない」と明言されるのです。
31節に「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、全てが添えて与えられる」とあります。「神の国を求める」ということは、言い換えれば、神を神とすること、神を第一義にすることです。神を信頼して歩むことを意味します。27節に「野原の花がどのように育つかを考えてみなさい。働きもせず紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる」とあります。野の花の美しさは、神に全てを委ねていることにあります。野の花は、神への信頼に生きる「信頼の教師」です。「信頼の教師」である野の花を見て、神への信頼を学びましょう。イエスご自身も神を信頼し、委ねて生きられました。そのイエスを信頼するゆえに、わたしたちもまた神への全幅の信頼をもつて生きることができます。恐れと思い煩いから解放され、勇気と平安をもって生きることが赦されます。イエスは、今日も「恐れるな、小さな群れよ」と呼びかけてくださっています。主イエスの呼びかけに応えて、恐れから解放され、力強く生きていきたいと思います。