2018年5月6日 イザヤ書48章1-16節 「主の言葉に耳を傾ける」

 与えられたテキストはイザヤ48章1-16節です。1節「ヤコブの家よ、これを聞け」、12節「ヤコブよ、わたしに耳を傾けよ」、14節「皆、集まって聞くがよい」、とあります。「神の言葉に耳を傾け、聞く」ことが繰り返し求められています。パウロもローマの信徒への手紙10章17節で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」と言っています。この「始まる」は「生まれる。来る」という意味で、信仰は神の言葉を聞くことによって生まれると言うのです。臨床心理士の東山裕久さんは、「プロカウンセラーの聞く技術」と言う著書の中で、「日本でも昔から『聞く』ことは、しゃべることより大切にされてきた歴史がある。例えば、『沈黙は金、雄弁は銀』『言葉多きは、品少なし』などのことわざのように、『聞く』ことの文化がある。」と述べています。児童文学者ミヒャエル・エンデも、「モモ」の中で「聞く」ことの大切さを主張しています。「モモ」は不思議な力を持っています。モモに話を聞いてもらうと、「自分たちは、なんとつまらないことで争っていたのか」と気付かされ、争いを止め、仲直りできるのです。もめごとがあると、「モモのところに行ったらいい。モモのところに行こう」と言うのです。モモの中で一番大切にしているのは、『ラウシェン』という言葉であると言っています。「ラウシェン」は、ドイツ語で、普通の「聞く」と言う言葉では言い表せない、深みをもった聴く、相手の心を聴くという意味です。「現代人は猛烈なスピードと慌しい生活の中で『聴く』ことを失っている。相手の心を聴くことが一番大切であることを訴えるために、モモを書いた」と言っています。アモス書11章11節に「見よ、わたしが飢饉をこの国に送る日が来る。それはパンの飢饉ではない。水にかわくのでもない。主の言葉を聞くことの飢饉である」とありますように、現代人は聴く力を失っているのではないでしょうか。
イザヤ書48章4節には「お前が頑固で、鉄の首筋をもち、青銅の額を持つことを知っている」とあります。イスラエルの主の言葉も聞く耳を失った頑なさ、頑固さを表しています。:8節の「お前は裏切りを重ねる者、生まれたときから背く者と呼ばれていることを、わたしは知っている」とあります。神の言葉に耳を塞いで,真摯に聞こうとしないイスラエルの人々の罪を意味しています。イスラエルの民は、今バビロン捕囚で、未来に希望を見出せない苦難生活を送っています。その長い捕囚生活の中で言葉を傾け聞く力を失っていきました。聞く力を失うことは、生きる力そのものを失うことでした。世はこんなものだと割り切り、諦め、投げやりになりました。その精神的な荒廃の中で、神の言葉に耳を傾けることなく、頑なに心の耳を塞いでしまったのです。それにも拘わらず、神は、「ヤコブの家よ、これを聞け」「わたしにあなたの耳を傾けよ」、「わたしのもとに近づいて、聞くがよい」と、忍耐強く語りかけ続けています。ちなみに、仏像は耳が大きく、口が小さいそうです。それは、仏が人の願いを聞く存在であることを象徴していると言われます。それに対して、聖書の神は言葉を語る存在であり、聴くことを求める存在であります。
6節に「これから起こる新しいことを知らせよう、隠されていたこと、お前の知らぬことを。それは今、創造された。昔にはなかったもの、昨日もなかったこと。」とあります。「これから起こる新しいこと」とは「第二の創造」を意味します。つまり、第一の創造は「天地創造」、第二の創造は「バビロン捕囚の苦難からの解放」を意味します。神が、天地創造で「現れ出でよ」と言葉を発すると、光、秩序、正義が創造されました。第二の創造では、捕囚の苦難からの解放が起ると言うのです。つまり、苦難と罪の束縛、執着と拘束からの解放です。その解放の出来事を起こす神の言葉に耳を傾け聞き、信じなさいと言うのです。
10節に「見よ、わたしは火をもってお前を練るが、銀としてではない。わたしは苦しみの炉でお前を試みる」とあります。「苦しみの炉」とは、具体的にはバビロン捕囚の苦難を意味し、更に、わたしたちの人生で出会うさまざまな苦難をも意味します。あなたがたの味わっている苦難は、そこから良きものを作り出す「炉」だと言うのです。誰でも苦しみを好みません。「試みに遭わせず、悪より救い出し給え」という祈りは自然の祈りです。しかし、四苦八苦と言われるように、人生の苦難、不条理は避けられません。必ず出会います。しかし、その苦難に直面した時、その「苦難」を神との関係で、受け入れるならば、深い意味あるものとなると言うのです。ヨブ記36章15節に、「神は苦しむ者をその苦しみによって救い、彼らの耳を逆境によって開かれる」とありますように、苦しみによって、閉ざされていた耳が開かれ、これまで聞くことのなかった神の言葉に深く聞くことができると言うのです。コリントの信徒への手紙Ⅱ12章9節、「すると主は、『わたしの恵はあなたに十分である。わたしの力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われた」とあります。信仰の真髄を表現している言葉です。ご存知のように、この言葉の背後には、「肉体に一つのとげが与えられた」というパウロを苦しめた苦難があります。パウロは肉体に一つのトゲ・苦難がなければ、神の言葉を聞くことはなかったし、救いの道も開かれなかったと言うのです。「わたしの力は弱さの中でこそ十分に発揮される。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と言います。「主よ、語りたまえ、わたしは聞きます」と言って、主の言葉に耳を傾け、聴き受け入れ、主に委ねていきましょう。