2018年6月10日 イザヤ書50章4-11節ローマ書8章34-38節「神の約束を信じて」

 イエスが十字架につけられたのは33歳頃と言われています。イエスはガリラヤのナザレで成長され、バプテスマのヨハネと出会います。彼の影響を受け、ナザレを出て、公の宣教に立ち、「神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じよ」と宣べ伝え,多くの病人を癒やし、貧しい人々の友となりました。しかし、イエスの宣教と働きは、律法学者やファリサイ派の人々から激しい迫害を受けました。弟子たちに捨てられ、ローマ総督ピラトに捕らえられ、十字架に着けられ、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びながら息を引き取られました。イエスの生涯は不条理と苦難に満ちた生涯でした。
今日のテキストの預言者イザヤも、イエスと同じ様に不条理と苦難に満ちた人生を歩みました。イザヤが活動した時代はバビロン捕囚時代でした。南ユダはバビロンに滅ぼされ、多くの民はバビロンに捕らえ移されました。60年にも及ぶ捕囚生活の中で、イスラエルの民は信仰と希望を失いました。そのような暗黒の中で、イザヤは神の言葉を語ることを命じられました。5節、6節に、「主なる神はわたしの耳を開かれた。わたしは逆らわず、退かなかった。打とうとする者には背中をまかせ、髭を抜こうとする者には頬をまかせた。顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた」とあります。イザヤはイスラエルの人々が救うために、敢えて不条理と苦難を引き受け受け入れたと言うのです。
讃美歌Ⅰ321の3節に「きたれ、きたれ、くるしみ、うきなやみも、いとわじ」とありますが、現実は、誰でも苦難に遭うことを厭うのではないでしょうか。加藤常昭先生は「人は苦難を自ら求める必要はない。また、求めてはいけない」と言い、山形謙二先生も「苦難を買って出る必要はない」と述べています。問題は、苦難に出遭った時、どのように苦難に対峙するかということではないでしょうか。忌まわしいものと、拒むのか、諦めるのか。逆に、苦難に意味を見出し、受け入れ、委ねるか。預言者イザヤは、神が必ず助けてくださるという信仰に立って、不条理な苦難を受け入れ、委ねることができたと言うのです。
7節に「主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない。わたしは知っている、わたしが辱められることはない、と。」とあります。神が助けてくださるという信仰がなければ、不条理な苦難に耐えることはできない、と言います。     
8節には「わたしの正しさを認める方は近くにいます。誰がわたしと共に争ってくれるか、われわれは(エロヒーム・神)共に立とう。見よ、主なる神が助けてくださる。誰がわたしを罪に定めえよう」とあります。神はわたしを苦しめる側に立たれるのではなく、苦しむ側のわたしの側(そば)に立ち、支え、寄り添ってくださる。そして、勝利に導いてくださると言うのです。
10節に「お前たちのうちにいるだろうか。主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも、主の御名を信頼し、その神を支えとする者が」とあります。光が見え、問題の解決の糸口が見えれば、信じることができるのではないでしょうか。しかし、預言者イザヤは、光は見えず、解決の糸口も見つからない。依然として、捕囚の闇の中を歩いているのです。そのような中にあっても、神を信頼し、委ねる者がいるのであろうか?。いや、確かに居る。どのようなことがあっても神を信頼し、委ねる者になろうと言うのです。
ドイツのトゥルナイゼン牧師は、「イザヤ書50章はわたしたちの信仰を問い直させる言葉である。光を得たからではない。光を得なくても、なお、主の名を呼び求め、主により頼み、主に委ねていく者は誰か。このような問いが神から問いかけられ、それに、応えていく。同時に、闇の中を歩いている人に対して、光を指し示すことができる。そこに、わたしたちの使命があるのではないか」と言っています。
ルオーに「この人を見よ」と言う絵画があります。画面全体は日食の時のように暗く描かれています。ローマの兵士に後ろから羽交い絞めにされたイエスの頭と白い衣には、黄色い光が射しています。画面の左下には、顔も識別できない群衆が立っています。それは、闇の中で、光を見出せない群衆を暗示しているようです。「この人を見よ」と題されています。闇の中で、光を得なくてとも、「この人を見よ」と、訴えているようです。イザヤは、「闇の中を歩くときも、光のないときも、なお主を信頼し、神を支えとする者がいるか」と問いかけています。この神の問いかけに生涯をかけて応えていきたいと思います。
パウロは、ローマの信徒への手紙8章で、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことが出来ましょう。艱難か、苦しみか、迫害か。飢えか。裸か、危険か。剣か。これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と言っています。どのような厳しい試練に遭遇しても、わたしたちを愛してくださる神によって、輝く勝利を得ることができる。他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないと断言しています。この神の約束を信じ、信頼して、全てを神に委ねて、歩んで行きたいと思います。