与えられたテキストはルカ福音書12章41―48節です。文脈を見ると、12章1節以下、イエスは、さまざまな試練と苦難に直面し、恐れおののく弟子たちに対して、恐れと思い煩いからの解放を約束しています。12章28節には、「野の花を見よ。今日は野にあって、明日は炉に投げ込まれる草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたはなおさらのことである。信仰の薄い者たちよ。あなたがたも、何を食べようか、何を飲もうかと考えてはならない。また、思い悩むな。ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」とあります。33節では、「擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい」という人生の究極的な目的を示し、その目的に向かってひたすら歩むことを勧めています。35節には、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、直ぐに開けようと待っている人のようにしなさい。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」とあります。主イエスの到来をひたすら待ちなさい。そうすれば、孤独と空虚を越えた慰めが与えられると言います。
今日のテキストですが、ペトロがイエスに、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と尋ねていることから始まっています。イエスは、ペトロの問いに直接答えません。逆に、42節に「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。あなたはどう思うか」とありますように、ペトロに問いかけています。ちなみに、ルカ福音書10章の「善いサマリヤ人のたとえ」でも、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と、イエスに問う律法学者に向かって、逆に、イエスは「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と問いかけています。イエスはいつもそうです。問われた問いに直接的に答えないで、逆に、問いを投げかけています。問いかけられた者が実存的になり、イエスの言葉を主体的に受け止め、考え方を変えられることを求めておられるのです。つまり、ペトロに、イエスの言葉を自分に向けられて語られていると、主体的に受け止めることを求めておられるのです。言い換えれば、ペトロが思慮深い者に変えられることを求めておられるのです。
この「賢い管理人」の「賢い」は、ギリシャ語で「プロニモス」と言い、「思慮深い、鋭い感性、豊かな想像力」という意味があります。甦られたイエスが再び来るという来臨信仰を鋭い感性と豊かな想像力で受け入れるという意味です。イエスが再び来てくださり、永遠に共にいてくださるという信仰が、頭の中で理解されるだけではなく、その人の感覚と経験にまでなっていく、その鋭い感性と豊かな想像力でもって主イエスの来臨を待望するという信仰が求められているのだと思います。
45,46節に「しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。」とあります。僕が、主人が長く留守をしたために、もう帰ってこないと思い込み、自分が主人だと倒錯し、下男や女中を殴り倒し、飲み食いし、勝手気ままな振る舞いをする。つまり、主イエスの来臨を待つ信仰を失った人は、自己を絶対化する罪に陥る。その意味では、わたしたちはいつも鋭い感性と豊かな想像力をもって主イエスの来臨を待っていなければならないと言うのです。
榎本保郎先生は「忙しいとは、心を亡ぼすと書くように、今日の生活は忙しいために、魂の深いところで生活をするということも失っている。それだけに、私たちに求められていることは、主の到来を待望しつつ、祈りと黙想の生活を営むことである」と言います。ヘンリー・ナウィンは、「祈ると言うことは、主イエスを待つ身繕いをするということである。魂の着物はすぐにだらけ、心の備えは崩れます。それだけに、私たちは祈りの時を持たなければなりません。祈るたびに、主イエスをいつでもお迎えすることが出来るように、改めて身繕いをしなければならない」と言います。
先日も申し上げたことですが、日野原重明先生が病む方の傍らでなさったことは、イエスを迎え入れ、委ねて祈りを献げ、その祈りの中で、平静心に与ることでした。イエスがペトロに求めたことは、目を覚まして、思慮深く、鋭い感性と豊かな想像力をもって、主の到来を待ち、委ねることでした。「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と言われるように、いつも鋭い感性と豊かな想像力をもって、主の到来を待望しましょう。ひたすら主イエスを見上げて歩んでいきたいと思います。そこに救いの道があると思います。