2018年7月1日 ルカ福音書13章1-9節 「主イエスの執り成しの恵み」

 与えられたテキストはルカ福音書13章1-9節です。1節に「ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた」とあります。これは、ガリラヤからエルサレム神殿の礼拝に来ていた人々が、総督ピラトの兵士たちに殺害された事件のことを言っています。つまり、あってはならない災難が起こったことを意味します。4節には「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、・・・・」とあります。シロアムの塔はエルサレムに水道を引くために建てた高い塔のことです。その塔が倒れ、そこに居合わせた18人が犠牲になった事件のことで、これも災難と苦難を意味します。つまり、ここで取り扱われている問題は災難と信仰という問題だと思います。災難は「なぜ、罪のない人や子どもが犠牲にならなければならないのか」という疑いと絶望を生み出します。その災難と信仰の問題に答えているのが、今日のテキストだと思います。
 ヨハネ福音書9章2節には、「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか、それとも、両親ですか」とありますように、弟子たちが昔ながらの因果応報、応報必罰の信仰に囚われていています。その弟子たちに、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」と答えています。つまり、因果応報、応報必罰の信仰を超えようとしています。
 ヨブは10人の子どもを台風で失い、悲しみうちひしがれていると、今度は重い皮膚病にかかり、絶望の淵に投げ込まれました。ヨブの嘆きと苦しみを知った三人の友人が訪ねて、ヨブに「あなたが苦しむのは、罪を犯しているからだ。苦しみは罪に対する罰であるから、はやく罪に気づいて、悔い改めなければならない」と言います。彼らはヨブを慰めに来たハズなのに、逆に、ヨブを苦しめるのでした。彼らは因果応報、応報必罰を信じ、災難や苦難は神の戒め・試練であると思い込んでいました。しかし、イエスは違います。今申し上げましたように、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」と言っています。つまり、昔からの因果応報、応報必罰の信仰を乗り越えて、神の福音を語っているのです。
 13章2節には「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。4節には「シロアムの塔が倒れて死んだあの18人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」とあります。イエスは、「なぜ、あの人たちは災難に遭われたのか?」という問いに、答えないで、「あなたがたは悔い改めなければならない」と言っています。「ちょうどそのとき、何人かの人が来て」と1節にありますが、この人たちはいつも問題を、第三者の側においています。あの人たちはどうなのか、この人たちはどうなのかと、自分が神の前にどのような存在である忘れ、あの人は、この人はという信仰態度であります。それに対して、イエスは、「他人が問題ではなく、あなたが問題である」と、大事なことは、あなた自身が悔い改めることだと言われるのです。
 6節からは「実のならないいちじくの木」の譬話です。ぶどうの木は実をならせ、ぶどう酒の原料になる大事な木です。それに対して、実のならないいちじくの木は、木材にもならない無用な木です。主人は、「もう3年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ」と園丁に命じました。すると、園丁は「ご主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください」と懇願したと言うのです。この園丁こそイエス・キリストです。イエスは、「実をならせないものは、邪魔だ。切り倒してしまえ」と言う主人に対して、執り成してくださったのです。その執り成しによって、主人は忍耐して待っていてくださり、赦してくださるのです。その神の真実を自分の事柄として、受け入れるのが「悔い改め」です。「悔い改め」は、ギリシャ語で、「メタノイア」と言い、「我に返る、本心に立ち返る」という意味です。言い換えれば、神がご自分の姿に似せてお造りくださった事実を受け入れることです。
 文芸評論家の佐藤泰正さんは人生について次のように言います。「私たちの人間の知恵で人生を見ると、人生は不可思議で、曖昧で、過酷なものに写る。しかし、人生が曖昧模糊、矛盾しているからと言って、割り切ってはいけない。こんなに一生懸命やっているのに、何も報われない。人生ってこんなものなのかと勝手に割り切り、見限ってはいけない。同じように、自分に対しても、人に対しても、見限り、切り捨て、割り切ってはいけない。これがキリストの、聖書の根本の精神である」と言っています。「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周り掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでも駄目なら、切り倒してください」とありますように、イエス・キリストは十字架に身を献げて、実のならないいちじくの木を執り成してくださいます。だから、ぶどう園の中のいちじくの木として、感謝と喜びとをもって立ち続けることができると言うのです。渡辺和子さんの「置かれた場所で咲く」という著書のように、自分はぶどう園の中のいちじく木として植えられているという事実を受け入れ、いちじくの木として生きればよい。私たちは、イエス・キリストの十字架の執り成しによって、いちじくの木であり続けることが許されていると言うのです。イエスの一方的な恵みと満ち溢れるイエスの愛が語られています。その事実を信じて、全てを委ねて歩んでいきたいと思います。