2018年7月29日 ルカ福音書13章31-35節 「道ありき」

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 テキストはルカ福音書13章31-35節です。文脈を見ると、13章23節では、弟子と思われる人が、イエスに「主よ、なぜ救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねました。すると、主イエスは、その問いに直接答えられず、「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」と言われました。「あなたは」と呼びかけ、「あなたは狭い戸口から入りなさい」と、イエスに従う決断を促しています。そして、今日のテキストの箇所になります。31節に「ちょうどそのとき、フャリサイ派の人々がイエスのところに近寄って来て、『ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています』」と言いました。「ここを立ち去ってください」という丁寧な言い方になっていますが、実際は「出て行け」という脅しです。このヘロデは、ヘロデ大王の子・ヘロデ・アンティパスのことです。父ヘロデ大王の死後、ローマ皇帝からガリラヤの領主に任命され、絶対的な権力を与えられました。ヘロデは不義を追求するバプテスマのヨハネを処刑し、その残忍な性格は恐れられていました。そのヘロデがイエスに殺意を抱き、殺そうとしていると言うのです。マルコ福音書3章6節には、「ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」とあります。イエスに危機が迫っていました。
 32節に、「イエスは言われた。行って、あの狐に、『今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ』と。」とあります。イエスは、ヘロデやファリサイ派の迫害を恐れることなく、果たすべき神の御旨に従い、十字架に向かい前進するのでした。イエスは、どのような迫害に出会っても、恐れることなく、前進する力強い姿で、わたしたちの前に立っておられます。私たちも、今、十字架の主イエスを正面に見据え、主イエスを仰ぎながら、この不条理に満ちた人生を歩んでいきたいものです。
 この「だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」の「ネバナラナイ」は、ギリシャ語で「デイ」と言い、ルカ福音書9章22節の「人の子は多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに排斥され、必ず殺されなければならない」に出てきます。イエスの十字架の苦難の道は必ず負わなければならない、神のネバナラナイの世界の出来事でした。もし苦難を避けるならば、人の救いは成就しないのです。その意味では神の道です。この「ネバナラナイ」は、「必ず」という意味で、「神のネバナラナイ」、神の計画・御旨が成就する道、神の定められた道です。
 この「必ず、・・・ネバナラナイ」は、使徒言行録23章11節にも用いられています。パウロが捕らえられ、最高法院で厳しい取調べを受け、殺害されそうになったとき、主はパウロの側に立ち、「勇気をだせ。エルサレムでわたしのことを力強く証ししたように、ローマでも必ず証をしなければならない」と言います。使徒言行録27章24節には、パウロを乗せた護送船が座礁した時、神の使いが現われ、「パウロよ、恐れるな。あなたは必ず皇帝の前に立たなければならない」とあります。パウロのローマ行きの道が途絶え、絶望的に見えたとき、パウロを奮い立たせ、その使命を遂行させたのは、「神のネバマラナイ」という神の言葉です。
 三浦綾子さんの小説に「道ありき」という作品があります。この作品は、戦後実際に起こったある事件の影響を受けていると言われます。戦争後、全ての価値観が崩壊し、多くの人が絶望に陥りました。その中で、一人の女学生が「道をなくて」という手記を残して自死するという事件が起こりました。三浦綾子さんも、戦後「道はなくなった」と絶望されたそうです。しかし、その絶望の中でイエス・キリストに出会い、イエス・キリストは人を永遠の命に導くまことの道であることを知るのでした。道がまったく見えないような状況の中で、イエス・キリストが歩んだ道があることを信じるのでした。言い換えれば、三浦綾子さんは神の「ネバナラナイ」道を与えられ、神の「ネバナラナイ」の道を選び、その神の道を歩んだと言うことになります。評論家の佐古純一郎さんによれば、三浦綾子さんは旭川で、雑貨店の女将さんでした。その三浦綾子さんが沢山の名著を生み出す作家になられたのは、神のネバナラナイ道を見出し、与えられ、その道を毅然として歩まれた結果だと言っています。
 聖書に出てくる人々は、この「神のネバナラナイ道」に出会った人達です。それは人間の側から言えば、彼らの決断です。しかし、彼らの決断の背後には、そうさせた神の恵みの御手があります。弟子たちは平凡な漁師で、無学なただの人でありました。彼らは本当に貧しい存在でした。召されるに相応しい賜物は、何一つとして持っていませんでした。それなのに主イエスは、彼らを必要としていると言って、招きました。「あなたは、主の御業のために、無くてはならない存在だ」と言いました。彼らは「神のネバナラナイ」に与り、導かれたのです。34節に、「雌鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前らを何度も集めようとしたか、だが、お前たちは応じようとしなかった」とあります。私たちの主イエスは、雌鳥が雛を翼の下に集めるように、私たちを「神のネバナラナイ」世界に招いておられます。それも何度も何度も呼びかけて下さっています。その主イエスの招きを信じて、主イエスに応え従っていきたいと思います。
 パウロは「高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」と言っています。この「愛」は「勝利、終末論的勝利を与ること」を意味します。どんな被造物も主キリスト・イエスの勝利から、わたしたちを引き離すことはできない、それらに勝ち得て余りがある、終末論的勝利を信じて、前に向かって前進していきたいと思います。