与えられたテキストは、「不正な管理人のたとえ」です。「ふしぎなキリスト教」の著者橋爪大三郎さんは「不正な管理人のたとえは極めつき解りにくい。イエスの言っていることの不可解さは際立っている」と述べています。「ある金持が管理人を雇って、財産を管理させていました。ある日、その男が財産を無駄使いしていると告げ口をする者がありました。主人は管理人を呼びつけて、『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない』と言いました。管理人は考えました。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』。そこで、主人に借金のある人を一人ひとり呼んで借用証書を書き換え、借金を減額してやりました。その管理人は主人の財産を使い込む、主人が貸しているお金を勝手に減額するという二つ罪を犯しました。とんでもない管理人です。ところが、主人は不正な管理人を抜け目のないやり方をしたとほめたと言うのです。橋爪大三郎さんは「管理人のどこが立派なのか、何をほめたのか。解りにくいたとえ話である」と、言っています。
「抜け目のないやり方をほめた」の「抜け目のない」は、ギリシャ語では「フィロニノス」と言い、「一心、一途、必死に」という意味があります。意訳すると「主人は、この不正な管理人の一心、一途さをほめた」となります。ルカ福音書11章に、次のようなたとえ話しがあります。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです』。すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きて何かをあげるわけにはいきません』。しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」。この「しつように頼めば、起きて必要なものは何でも与えるであろう」の「しつよう」は「一心、一途、しきりに(口語訳)」という意味です。イエスは、その「一心、一途さ」が信仰においては、より本質であると言うのです。
エレミヤ書29章13節には「もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕らわれ離されたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる」とあります(口語訳)。ここに「一心」(新共同訳・心を尽くして)が出てきます。捕囚の苦難を忘れきるほどに一心、一途に神を尋ね求めるならば、捕囚から解放されエルサレムに帰還することができると言うのです。1節に「イエスは、弟子たちにも次ぎのように言われた」とあります。この「たとえ話」は弟子たちに向けて語られたと言うのです。この時、弟子たちの心は不確かでした。何かがあれば、元の漁師の生活に戻ろうと、いつも逃げ道を探している不確かな弟子たちに、一心、一途さを教えているのが、この「不正な管理人のたとえ」だと思います。
9節に「不正にまみれた富で友だちを作りなさい。そうしておけば、お金がなくなったとき、永遠の住まいに迎え入れてもらえる」とあります。橋爪大三郎さんが言われるように、不可解な言葉です。冨や金は、ギリシャ語で「マンモン」と言い、「頼りになるもの」という意味です。ギリシャ人は、冨や金は目に見える確かなもの、頼りがいのあるもの、人の支えになると考えていました。しかし、イエスは、マタイ福音書4章4節に「人はパンで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とありますように、冨も金も真の命の支えにならない、神の言葉によって生きると言うのです。9節の「友」は、ギリシャ語で「フィロス」と言いまして、所謂、この世の友達ではなく、永遠の命、終末的な命に導く、目に見えない友・フィロスを意味します。言い換えれば、永遠の友であるイエス・キリストを意味します。終末的な、永遠の命であるイエスに繋がりなさいと言うのです。目に見えるものではなく、目に見えないものに弟子たちの心の目を開かようとされたのです。
詩人の高見順の「樹木」という詩があります。「病室から見える崖の木と、僕はすっかり親しくなった。いつも寝台で寝ている僕と、いつも崖に立っている木と。木は木のように立った僕を見たいと思っているかもしれない。・・・・・。葉と枝は人に見せ、 大切な根は人に見せない」。樹木の根は地中深く張って見えません。しかし、樹木は見えない根のお陰で、強風に耐え、日照りに耐え、立ち続けることができます。高見順は見えるものではなく、見えないものに心の目を注ぐ生き方は、豊かな恵みに与ることができると言っています。パウロは「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」と言います。目に見えない永遠の友イエスに目を注ぎ、主イエスにしっかり繋がっていきましょう。