2019年1月20日 サムエル記下13章1-36節 「憐れみ深い神」

 与えられたテキストはサムエル記下13章1-36節「アムノンとタマル」と「アブサロムの復讐」で、ダビデ家に起こった醜聞・スキャンダルが記されています。ダビデの子のアムノンとアブサロムとその妹タマルの物語です。アムノンは異母妹タマルに恋していました。或る日、アムノンはタマルを自分の部屋におびき寄せ辱しめるのでした。その後、わがままなアムノンは心変わりをし、タマルを憎み虐待するようになりました。タマルは絶望し、死人のような状態になりました。兄アブサロムは絶望するタマルを見て、怒り、復讐を誓います。復讐の機会をねらっていましたが、遂にその時が来ました。アブサロムは祝宴を催し、アムノンを丁重に迎え、従者に命じてアムノンを殺害しました。こうしてダビデ家の破廉恥な醜聞・スキャンダルが起きました。聖書は、どうしてこのような醜聞・スキャンダルを記しているのでしょうか。聖書ですから、人の躓きになるような忌まわしい醜聞・スキャンダルは記して欲しくないという思いがあります。しかし、聖書はこの忌まわしいスキャンダル・醜聞を躊躇することなく記しています。聖書は神の御旨と救いを伝える書物ですから、この醜聞・スキャンダルな記事にも神のメッセージがあるはずです。そのメッセージは何かを、考えてみたいと思います。
28節に「アブサロムは自分の従者たちに命じて言った。『アムノンを殺せ。恐れるな。これはわたしが命令するのだ。勇気を持て。勇敢な者となれ』。」とあります。アブサロムがアムノンを殺害するように、従者に命じた言葉です。この言葉には、「アブサロムは命じて言った」とありますようが、「神は命じて言った」という神を主語にした言葉ではありません。ヨシュア記1章5節には「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。強く、雄々しくあれ。」とあり、9節には「わたしは、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこに行ってもあなたの神、主は共にいる」とあります。ヨシュアがヨルダン川の急流を目の前にして、恐れ、惑っていた時、神がヨシュアに命じた言葉です。
このヨシュアの言葉とアブサロムの言葉を比べてみますと、その違いは歴然としています。つまり、アブサロムの言葉はアブサロムが主語・主体で、神はでてきません。それに対して、ヨシュアの言葉は「神は命じて言った」とありましょうに、神が主語・主体です。言い換えれば、ダビデ家は人間だけの世界になっていて、神を失っています。アブサロムもアムノンも、神を自分の前に置かず、神の御旨を問うことはありません。そのために、ダビデ家は真の命を失い、その本質を見失い、滅びの道をたどらざるを得なかったというのです。ルカ福音書の放蕩息子が悔い改めて、父なる神の元に帰ってきたように、ダビデの家が再び神の元に帰り、神を主と迎え、神の前に立つことが、何よりも必要であるという事実を伝えているのではないでしょうか。
20節に「兄アブサロムは彼女に言った。『兄アムノンがお前と一緒だったのか。妹よ、今は何も言うな。彼はお前の兄だ。このことを心にかけてはいけない』。タマルは絶望して兄アブサロムの家に身を置いた。ダビデは事の一部始終を聞き、激しく怒った」とあります。36節には「彼らは声をあげて泣き、ダビデ王も家臣も皆、激しく泣いた」とあります。ダビデ王が愚かなアムノンに激しく怒り、また、アブサロムが王子アムノンを殺害したことを知り激しく泣いたというのです。ダビデ王は、子どもの愚かさにおろおろするばかりで、毅然とした態度を取ることはできません。アムノンの悪行を咎めることができない、復讐心に燃えるアブサロムに対しても親としての責任を果たすことができませんでした。ダビデの弱さです。詩編56編4節に「恐れをいだくとき、わたしはあなたに依り頼みます。神の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者が、わたしに何をなしえましょう」とあります。神への信頼を失ったために、罪深い忌まわしい醜聞が起きたというのです。ダビデ家は崩壊していました。何処にも出口も、光も見出だし得ません。しかし、神は憐れみの神です。神は罪と弱さを一杯持っていたダビデを救われたのです。この事件後、歌ったといわれる詩編32編1節に「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。」とあります。神はダビデ王の破れ、弱さ、罪を覆われ赦されたというのです。
コリントの信徒の手紙Ⅰ10章13節に「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」とあります。この「真実」は「嘘偽りのない、誠実な、愛に満ちた」という意味です。神はダビデのような悲劇的な、無残な者を見捨てず、逃れる道を備えていてくださるというのです。イザヤ書41章9節には「あなたはわたしの僕である。わたしはあなたを選び、決して見捨てない。恐れることはない。わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神」とあります。神はどんなに罪深い者でも、決して見捨てることはないと言います。神は自分を見捨て、家を出ていった放蕩息子を迎え入れたように、罪深く弱い者に寄り添ってくださいます。パウロはフィリプの信徒への手紙4章11節で「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と言っています。どのような状況でも、神の愛と導きがあるというのです。この言葉が自分に語られた言葉として受け入れ、すべてを委ねて前進したいと思います。