与えられたテキストは「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえです。ファリサイ派の人は律法に忠実で、熱心で、人々から尊敬されていました。徴税人はローマ帝国の徴税の請負人で、税金を厳しく徴収するため大変嫌われ、軽蔑されていました。14節に「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」とあります。義と認められたのは尊敬されていたファリサイ派の人ではなく、嫌われていた徴税人であったというのです。それはなぜか?どこに違いがあるか?を考えてみたいと思います。
9節には、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下げている人々に対しても、イエスは次のたとえを話された」とあります。この「うぬぼれる」は「自任する、自らを恃む(たのむ)、自分をあてにする」という意味です。ファリサイ派の人は祈りを献げているのに、心の内では神を信頼しないで、自分を恃みにしているというのです。詩編53編4節に「皆ともに、汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」とありますように、人間は本来造られた有限な存在ですから、自分を恃みにしても支えることができないのです。しかしファリサイ派の人々は自分が罪ある存在であることを認識しないので、自分で自分を支えることができると思っていました。
11節に「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った」とあります。この「心の中で」は「自分に向かって」という意味です。ファリサイの人は神に向かって祈ったのではなく、自分に向かって祈ったというのです。神と対話(ダイアローグ)でなく、独白(モノローグ)です。「ファリサイ派の人は立って」の「立つ」は、所謂「立つ・座る」の立つではなく、「自らを立てる、自分を目立てさせる、自慢する」という意味です。11節に「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者ではなく、また、この徴税人のような者でないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」とあります。ファリサイ派の人は神と一対一の垂直的関係を持たないで、他人を較べて自分の位置を確認するという生き方をしているのです。その結果、神の義、罪の赦しを受けることができませんでした。
13節に「徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」とあります。この「立つ」は神の前に、一対一の関係で立つことを意味します。徴税人は神との垂直的関係の中で生きていました。自分は神の憐れみを受けてしか、生きることはできないと思っていました。詩編55編23節に「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」とありますように、徴税人は他者と較べないで、他人を恃みとしないで、ただ、神のみを恃みにし、全てをゆだねていました。
ある人は「ファリサイ派の人は他人指向型人間である」と言います。彼は他者との水平的関係を重視し、他人に嫌われることを恐れ、他人の期待に応えようとすることが人生の目的になっていました。その結果、自分の本当の姿が分からなくなり、自分を失い、有りの儘の自分を生きることができなくなっているというのです。イエスは他人指向型、水平的関係で生きるのではなく、神指向型、神と垂直的関係で生きることを求め、そこに真の救いと希望があるというのです。
14節には「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とあります。パウロが「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と。また「満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足しても、いついかなる場合でも対処する秘訣を授かっています」と言っているように、神指向型、神と垂直的関係に生きる時、神の恵みに生かされている事実を受け入れることができます。神の恵みに生きることが、この世を生きる秘訣だというのです。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」とありますように、徴税人は、この世の中を生きる時、世に倣わず、キリストに倣い、キリストよって生かされたというのです。
或る時、弟子たちは、イエスに命じられて、ガリラヤ湖に舟を乗り出します。その途中で逆風に出会い、舟は転覆しそうになりました。その時、向こうにイエスが立っているのが見えました。ペトロは「わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」と言いました。イエスは「歩いてきなさい」と命じました。不思議なことですが、ペトロがイエスを見つめて歩くと、荒れ狂う海の上を歩くことができたのです。しかしペトロが、イエスから目を離し、足元の荒れ狂う海を見ると、ペトロは海に沈み、溺れてしまいました。ペトロは思わず「主よ、お助けください」と叫びました。すると、イエスは「信仰の薄い者よ。なぜ、疑うのか」と言われました。この「疑う」は「二つのものを同時に見る」ことを意味します。ペトロは、イエスから目を離し、荒れ狂う海を見たために、疑い、恐れが生じたというのです。イエスのみを見つめ、イエスだけを仰いで垂直的に生きていく時、荒れ狂う海の上を歩くことができたのです。「わたしの魂よ、沈黙して、ただ神に向かえ。神にのみ、わたしは希望をおいている」「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。」とあります。神と向かい合い、神との垂直な関係に立って、ただ神のみを見上げて、前進したいものです。その時生きる勇気と希望が与えられるのです。