或る先生は「高齢者の日々は絶壁の尾根を歩いているようなものである」と言います。北アルプスの前穂高から西穂高への道は馬の背ほどの細い尾根で、一歩足を踏み外せば、深い谷底に転落してしまいます。そのような危機の中を生きるのが高齢者の人生であるといいます。しかしそれは高齢者だけでなく、全ての人に当てはまると思います。誰でも危機に直面しながら生きています。窮地に立たされたとき、不条理と挫折に打ち克つか?絶望し、退廃的になってしまうか?人間の真価が発揮されるというのです。詩編56編5節に「神に依り頼めば恐れはありません。肉にすぎない者がわたしに何をなしえましょう」とあります。神への信仰は窮地に立たされとき、信仰の力は発揮されるというのです。今日はそのことを考えたいと思います。
与えられたテキストはサムエル記下第15章1-37節で、ダビデ王が窮地に立たされた物語です。ダビデは息子アブサロムが謀反を起こし、滅亡の窮地に立たされました。王子アブサロムはカリスマ的な魅力と才能を備えており、野心家でもありました。妹タマルがアムノンに辱しめられたとき、アムノンを憎み殺害しました。アブサロムはダビデ王の怒りを避けて、ゲシュルに逃れました。三年後許されてエルサレムに帰還しました。四年後アブサロムは王位継承を求め、ダビデに不満を持つ者を集め、反旗をひるがえし、エルサレムに攻め上りました。ダビデは不意を突かれ、エルサレムの宮殿を追い出され窮地に立たされました。
30節に「ダビデは頭を覆い、はだしでオリーブ山の坂道を泣きながら上って行った。同行した兵士たちも皆、それぞれ頭を覆い、泣きながら上って行った」とあります。何故、ダビデが泣きながら、はだしで、頭を覆って逃げ出したのか?ある人は「自分の子であるアブサロムが裏切った。その怒りの涙である」といいます。ある人は「自分を裏切る子でも、親として、なお、息子の行く末を案じる。子どもを思う悲しみの涙である」といいます。「頭を覆い、はだしで、泣きながら」という姿は「悔い改め」を意味しています。ダビデは自分の罪を悔い、神に許しを乞うたのです。コリントの信徒への手紙Ⅰ10章13節に「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるように、逃れる道をも備えていてくださいます」あります。ダビデは窮地に立たされるという試練を神が備えた道であると受け止めようとしたのです。
25節に「王はツァドクに言った、『神の箱を都に戻しなさい。わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう。主がわたしを愛さないと言われるときは、どうか主が良いと思われることをわたしに対してなさるように。』」とあります。ダビデは究極的には神の定に従い、全てを神にゆだねると言うのです。マルコ福音書14章36節に「イエスは、少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。『アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように』」とあります。イエスが十字架を前にして、主の御旨に従うというイエスの究極的な祈りです。詩編37編23節に「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」とありますように、ダビデも自分の願いではなく、神の御旨がなりますようにと究極的な祈りへと導かれたのです。
19節には、ダビデはガド人のイタイに対して、「なぜあなたまでが、我々と行動を共にするのか、戻ってあの王のもとにとどまりなさい。昨日来たばかりのあなたを、今日我々と共に放浪者にすることはできない。わたしは行くところへ行くだけだ。兄弟たちと共に戻りなさい。主があなたに慈しみとまことを示されたように」と言っています。意訳すれば、わたしの未来は分からないが、その未来を神にゆだねる、自分のすべてを神の御旨にゆだねているとなります。詩編55編23節に「あなたの重荷を主にゆだねよ。主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる」とあります。ダビデが窮地に立たされて、自分に求められることは、神にゆだねることであるというのです。
しかし、実際は、神にゆだねなさいと言いますが、このように不安と混迷の時代の中で、「ゆだねる」ことができるでしょうか。聖書の中で「ゆだねる」と言う言葉が使われているところを見てみます。ルカ福音書23章46節に「イエスは大声で叫ばれた。『父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と大声で叫んで、息を引き取られました』」とあります。イエスの十字架上の最後の言葉です。ペトロの手紙Ⅰ2章23節には「ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても人を脅かさず、正しくお裁きになる方におゆだねになりました」とあります。イエスは十字架の全生涯を神にゆだねています。ペトロの手紙Ⅰ4章19節に「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」とあります。イエスは窮地に立たされた時、神にすべてをゆだねました。「神にゆだねる」を別の言葉で言い換えれば、窮地を神から与えられたものとして受け止め、神の支配があると信じることです。詩編37編23節に「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」とあります。わたしたちは窮地に立たされるとき、あれか、これかの決断を迫られます。その決断したことが神の御心であり、神の定めたことであると信じていくことです。その時に生きる勇気と希望を与えられます。十字架の窮地の中を生き抜かれたイエスの御跡に従って行きたいと思います。