2019年3月10日 ルカ福音書19章1-10節 「言葉は力」

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 多くの宗教が人間の修養や思索によって真理を得ていくのに対して、聖書の宗教は神が人間に語りかけることによって示された真理を受け入れ、従っていく宗教です。パウロは「実に信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」と言っています。神が預言者やイエスを通して語った言葉が記されている聖書を通して、今神がわたしたちに語りかけ、それに対して決断をもって答えていく中で信仰が生まれると信じています。その意味で聖書の信仰は言葉の信仰であるということができます。
 「言葉は力」という著書があります。言葉が人に生きる力を与えた事実を記した「証し」のような書物です。その著書の中の感動したお話を紹介します。一人の母親の「証し」です。彼女には結婚されて長い間子どもがありませんでしたが、やっと男の子が授かり生まれました。しかし、その子はひどい弱視で、分厚いレンズのメガネをかけなくてはなりませんでした。人は冷たい視線と言葉が投げかけます。「なんだ、その変な目。妖怪、お化け」とからかい、意地悪をします。母親は辛い思いをし、悔しくて眠れない日もありました。しかし、打ち拉がれている母親を支えたのが、子どもの幼稚園の先生でした。母親が悩みを打ち明けると、先生は「実は、わたしの右目は義眼なのです」と打ち明けられたそうです。その先生は生まれつきひどい斜視で、どんなに治療しても治らないので、彼女の両親は苦慮の末、せめて外見だけは、人並みにと、子どものころに眼球摘出手術をされたそうです。先生は「自分はひどい斜視で生まれてきたことを不運だと恨むとか、損をしたとか、そういう気持は全然ありません。この事実を受け入れている」と言われたそうです。先生は、分厚いメガネを掛けた子どもを幼稚園の友達に紹介するとき、「宏君がメガネをかけてきてくれました。このメガネは何でもよく見える『魔法のメガネ』です。しかし、宏君にしか効かない魔法なの!だから「メガネを貸して」とか、「メガネをはずしてみて、・・・」とか言わないでねと紹介しました。そして母親の方を向いて、「任せてくださいね」と言われたそうです。その先生の一言に母親を救われたそうです。力んでいた肩の力が抜け、リラックスでき、心に平安が与えられたと言います。その後も、この親子にはいろいろ辛いこと、悔しいことが続きました。しかし、幼稚園の先生の言葉に支えられ、救われてきたというのです。その意味では、言葉は人を救い、解放する力であるということができます。言葉は目に見えません、無力に見えます。しかし、言葉は普遍的力です。コリント信徒への手紙Ⅰ1章18節には「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」とあります。「愚か」は「無力」という意味です。神の言葉は滅びいく者には無力ですが、信じる者には人を真に生かす力であるというのです。
与えられたテキストはイエスとザアカイの出会いの物語、ザアカイがイエスから言葉が与えられ、その言葉によって救われ、永遠の命が与えられる物語です。ザアカイはローマ帝国の徴税人でしたので、同胞のユダヤ人からは売国奴と大変嫌われ軽蔑されていました。その上彼はひどく背が低くかったといいます。ザアカイは、イエスがエリコの町を通ることを知り、一目見ようと、そこにあったいちじく桑の木に登り、イエスの来るのを待っていました。イエスがいちじく桑の木の下に来ると、「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」と言われました。ザアカイは大変驚き、感動しました。イエスの方から御手を差し伸べ、ザアカイを招いてくださったというのです。
 この物語の主旨は、ザアカイが求めない先に、ザアカイに目を留めてくださった。ザアカイが求めない先に立ち止まり、語りかけてくださった。求めない先に、自分からあなたの家の客になると言われた。先だってイエスの方から愛してくださったというところにあります。ヨハネ福音書15章16節に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと」とあります。ヨハネの手紙Ⅰ4章10節には「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」とあります。ザアカイは徴税人で愛される資格や価値はまつたくありませんでした。しかし、イザヤ書43章4節に「わたしの目にあなたは価高く、貴い」とありますように、イエスはザアカイを尊び顧み愛されたのです。
 9節に「今日、救いがこの家を訪れた。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」とあります。イエスがこの世に来られた目的を明かにしています。ザアカイは徴税人がゆえに、誰からも、尊敬されず見向きもされず無視されていました。ザアカイは神から捨てられたと見ていました。ザアカイ自身もそう思っていました。彼は長く暗闇の中で生活をし、心の深いところでは絶望し、諦め、お金だけには執着していました。「自棄・やけ」という言葉があります。ザアカイは、「ヤケ」を起していまいました。自分は神から、他人から忘れられ捨てられていると絶望していました。しかし、詩編27編10節に「たとい父母がわたしを捨てても、主は必ず、わたしに寄り添ってくださいます」とあります。イエスは、わたしは絶望している者を尋ね出し救うために来たと宣告されたのです。
ザアカイは「主よ、わたしの財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言いました。イエスの言葉はザアカイを生まれ変えらせました。イエスの言葉は、ザアカイをして古い自分に死なせ、新しく自分に生まれ変わらせました。わたしたちはイエスを見ることができませんが、キリストの言葉を聞くことができ、聞いて信じる者に生まれ変わることができます。イエスの言葉は力です。イエスの言葉には人を生まれ変わらせる力があります。その真実を信じてイエスの言葉に従っていきたいと思います。