2024年12月15日 「木には希望がある」イザヤ10:24-11:5

 待降節第3主日で、テキストはイザヤ書10:24―11;5です。11章1節に「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に霊がとどまる。」とあります。1節の原文の文頭には、協同訳には訳されていませんが、「ワウ、ところが、しかし、」という意味の接続詞があります。訳してみると、「主は森の茂みを鉄の斧で断ち、レバノンの大木を切り倒される。しかし、ところが、エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。」となります。イザヤのメシアの預言です。エッサイ家はユダ族の貧しい羊飼いです。エッサイ家から神に召されるとは、思いも及ばないことでした。しかし、ところが、ダビデの上に、主の霊がとどまった、というのです。それは逆説的な信仰をまた、神の思いは人間の思いを遥かに超えている信仰的事実を示しています。

10章33節に、「見よ、万軍の主なる神は、斧を持って、枝を切り落される。そびえ立つ木も切り倒され、高い木も倒され、レバノンの大木が倒された。」とあります。これは、北イスラエルのダビデ王朝の滅亡を意味します。北イスラエル王国はアッシリアによって滅亡し、首都サマリヤは崩壊し、住民はアッシリアに捕囚としで連行されました(B,C721)。しかし、南ユダ王国は、アッシリアの王シャルマナサルが急死したため、侵略、滅亡は免れました。しかし、その後、センナケリブがアッシリア王に即位しますと、再び、南ユダ王国侵略を始め、エルサレムを攻撃し、包囲しました。エルサレムは滅亡の危機に陥りました。時の王ヒゼキヤは、慌て、ふためき、アッシリアに助を求ました。預言者イザヤは「立ち帰って、信じるならば、救われる、信頼していることにこそ力がある」と、神を信頼するように勧告しました。ヒぜキヤ王は、希望を失っていました。宮殿の宝物殿にあった宝物をバビロンに朝貢し、滅亡免れましたが、アッシリアの属国になりました。ヤッハウェの神への信仰を失い、アッシリアの神々とバアルの神の祭壇を造り、バアルの神に迎合した結果です。イザヤは、ダビデ王朝の崩壊と終末を目撃し、レバノンの大木は倒れた、と表現しています。イザヤも、皆も、全ては滅びた、もうダメだと絶望しました。しかし、ところがです。神は、イザヤに「切り倒された木の後を見よ」と命じます。「木は切り倒されても、切り株」が残る。その「切り株」から、芽、ひこばえが萌え、信仰の目をもって見よと、イザヤは言う。信仰は見えている現実だけではなく、見えない事実を信じます。預言者エレミヤですが、預言者に召された時、神から、「なにが見えるか」と問われます。エレミヤは「シャーケードの枝が見えます」と答えます。「シャーケード」は春に先駈けて一番先に咲く花です。現実は厳冬だけれど、春一番に咲く花を見ている。暗闇だけど夜明け、真冬ですが、雪解けを見ています。その意味では預言者です。幻を見る賜物を受けています。

この「エッサイの株から一つの芽が」と言いますが、この「株・ゲザ」は、切り株ですが、立派な切り株ではなく、ボロボロに朽ち果てた、生気のない「切りを意味します。イザヤは、「ダビデの株」と言わないで「エエッサイの株」と言います。エッサイは、ベツレヘムの貧しい羊飼いの家柄でした。誰もが、王朝が生まれるなど考えられませんでした。そのエッサイの切株から、新しい芽が出ると言うのです。

クリスマス物語では、天使がマリアに「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに。もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」と言います。神は、ボロボロになって捨てられる切り株から、新しい芽を萌えだせます。神は石ころからでも、アブラハムの子を造り出すことがおできになると信じています。11章1節に「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊が注がれる。」とあります。霊は「ルーアッハ」と言い、「自由に働く神の力」、を意味します。パウロは「土の器に納められている、並外れて偉大な神の力、・デュナミス」と言っています。その神の霊、並外れて偉大な神の力が注がれると、新しい芽が萌えいでる。メシアの出現を預言しています。ヨブ記14章:7節に「木には希望があるというように、木は切られても、また新芽を吹き、若枝の絶えることはない」とあります。この「希望・ヒックワ-は牢獄に閉じ込められてもなおもち続ける希望」と言う意味です。

讃美歌二編の57番に、イギリスの詩人・ウィリアム・クーパーの「あらしのあとに」という讃美歌に「あらしのあとに、なぎはきたり、かなしみさりて、なぐさめあり、人の望みの、つくるところ、なお主はいまし、おさめたもう」とあります。希望です。クーパーは逆説ですが、「人の望みがつきるところにある希望」と言います。人の望が尽きるところが、終わりではなく、なお、その先に本当の希望があると言うのです。パウロは、何回も「落胆しません」、「私たちは落胆しません。外なる人は衰えていくとしても、内なる人は日々新しくされていきます」と。私たちは途方に暮れても落胆しないと。パウロは何回も期待を裏切られ、理不尽なこと、不条理に遭い、失望落胆しています。「しかし、」と言います。失望落胆の先に希望があると言います。神は、その神の希望を伝えるために、イエスをこの世に遣わしてくださいました。