2025年3月9日 「試練とイエスの信仰」 マタイ:41-4 イザヤ38:1-6

与えられたテキストはマタイ福音書4;1-4で、『誘惑を受ける』です。4;1に、「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、”霊“に導かれて荒れ野に行かれた。」とあります。イエスを荒れ野に導いた霊には、“ ”ダブルクオートを付け、神、神自体を表しています。神が、イエスを誘惑するために荒れ野に導いたというのです。マタイ3;16に「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」とあります。この「霊」は、ダブルクオートが付いていませんが、1節の“霊”と同じです。イエスは霊に導かれて荒れ野に行かれた、と言います。荒れ野」の原意は「荒れる、捨てる、嫌う」という意味です。イスラエルの人々が奴隷であったエジプト脱出、カナン定着の40年間、彷徨い、飢えと渇きで、何人もの生命を奪った、恐怖と苦難と死とを与えたのが「荒れ野」です。その「荒れ野」に、神は愛する我が子を導くというのです。ルカ福音書は、その信仰を訂正するかのように、「荒れ野の中を”霊“によって引き回され、」と。マルコ福音書は「”霊“はイエスを荒れ野に送り出した。」と、なっています。

1節を意訳すると、「そのとき、イエスは悪魔から誘惑されるために、“霊”(神)に導かれて荒れ野に行かれた。」となります。「悪魔から誘惑されるために」の「ために」は、ギリシャ語で「フュペル」と言い、「目的、理由、意味」を表す前置詞です。パウロは、この「ために・フュペル」をローマの信徒への手紙14章8節で「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」で用いています。「フュペル、ために」の前置詞は、パウロの信仰にとって大事な言葉です。ヘブライ人の手紙2章16-18節には、「つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放するなさるためでした。それで、イエスは神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」とあります。イエスが神に導かれて荒れ野に行く、悪魔から誘惑されるためには意味と目的があるというのです。イエスは多くの試練と苦難に出会いました。それは試練と苦難に遭っている人たちの救いと希望になるためです。これは普遍的真理です。わたしたちにとっても真理です。わたしたちが出会う試練と苦難には、神の御旨、意味と目的があるのです。

或る夫人は夫と娘さんを亡くされました。夫はC型肝炎ウイルスに感染し、肝臓癌を冒され、亡くなられました。娘さんは留学が終えて帰国され、検査を受けると、卵巣癌が見つかり、緊急で治療を受けたのですが、進行性だったでしょうか。夫人は夫と娘さんを亡くされました、人生は不条理、理不尽だと思います。しかし、イエスは、どのような不条理な、矛盾した出来事にも、“霊”神のみ旨 意味と目的があると言います。試練と苦難に出遭っている人たちの救いと希望になると言います。

ヒゼキヤ王は死の病に襲われ、預言者イザヤから「あなたは死ぬいいことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい」と言われます。死の宣告です、立派で誠実な王でしたが、恨み、呪い、絶望しました。しかし、壁に向かって、大声で泣き、祈ったと言います。「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目かなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください。」と。すると、神は答えました。「わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたの寿命を十五年延し、アッシリアの王からあなたの都を救い出す。」と。イザヤ書38;2に、「ヒゼキヤは顔を壁に向けて、主に祈った。」とあります。ヒゼキヤは立派で優れていましたが、試練や危機や苦難に出会ったとき、支え、助け、救いの御手を差し出すイエスを啓示することでも優れています。

夫と娘さんを亡くされた夫人ですが、厳しい現実をしっかりと受け止め。自分の足で立ち、歩いておられます。「苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ロ-マ5;34)、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12;24)。御言葉は、不条理に、理不尽に見える出来事が、神の目から見ると、大きな意味と目的があるという事実を示してくださいました。

イエスは悪魔から「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と言われます。原文には「もし」があります。「もし神の子(神)になりたいなら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」となります。アダムとエバと同じ「誘惑、神の子、神になる」という誘惑と考えられます。神に造られた人間であることを無視し、創造した神の御旨を問うこともない、祈ることもない。自己を絶対化し、他者を裁き、自己中心に生きる。それが悪魔の誘惑だと思います。

その悪魔に対して、イエスは、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きると書いてある」と言って、悪魔の誘惑を退けたと言います。「一つ、一つの言葉で生きる」の「生きる」は、ギリシャ語で、「ザオ-」と言い、「活き活きと生きる、意味と目的を見出して生きる」という意味です。この「活き活きと生きる」には、口から入る食べ物に加えて、耳から入る神の言葉が必要であると言います。パウロは「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」と言う(ローマ10:17)。言い換えれば、神と正しい関わりを持ち、神の御旨を尋ねることが根源にある。

イエスは、ゲッセマネの丘で、「父よ、御心なら、この十字架をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と、苦しみもだえ、汗が血の滴るように祈られました。つまり、血の汗を流しながら神の御旨を問い、生きる。それが造られた者の生きる道である。存在の意味と目的を与えてくれる神に、御旨を尋ねて生きる。それが造られた者の生きる道である。荒れ野の旅で飢えと渇き、飢饉に直面させられとき、神はマナを与えて、飢饉から救ってくださった。神は、どのような危機に直面し、窮地に立たされても、必ず養い、助けてくださる。その事実を信じて、活き活きと幸せに暮らしていきましょう。