2025年10月5日 「傷ついた葦を折ることなく」マタイ12:9-21 イザヤ書42;Ⅰ-4

与えられたテキストはマタイ福音書12:9-21です。:18-21は旧約聖書のイザヤ書の引用です。「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。異邦人は彼の名に望みをかける」とあります。マタイは、イザヤの言葉を用いて、イエスのもたらす救いを明らかにしています。

:15節に、「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。」とあります。「それを知って」とありますが、「何を知ったか」。それは、ファリサイ派の人々がイエスを殺害する策を練り始めたことです。なぜイエスは、殺害を企てられるほど恨まれたのか。それはイエスが安息日の律法を犯したからです。ある安息日に、イエスは会堂にお入りになりました。そこに一人の片手の萎えた人がいました。イエスはその人を気の毒に思い、癒されました。ファリサイ派の人々は「安息日に病気を治すことは、律法違反だ」と激しく批判し、イエスを訴えようとしました。すると、イエスは一つのたとえ話を話されます。;11節「あなたたちのうち、誰か羊を一匹持っていて、その羊が安息日に穴に落ちた場合。手で引き上げてやらない者がいるだろうか。羊でさえ救おうとする。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」と言われました。この「大切なもの」は「より優れているもの」という意味です。リビング・バイブルでは、「人間の価値は、他に比べものになりません」となっています。イエスの人権宣言、基本的人権です。イエスは人間の救いのためには、安息日規定を超えることがある。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」と言われました(マルコ2:27)。ファリサイ派の人々は律法を絶対化し、律法を破る者は罪を犯す者と決めつけ、処罰しました。しかし、イエスは人間の救いを第一義とし、何よりも本質的なのは人間の救いです。人間の尊厳です。;12節に「人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている」とあります。この「善い」は、ギリシャ語で「カロー」と言い、「純粋な動機、目的にかなったこと、なすべきこと、時宜にかなったこと」などの意味あります。「許されている」は「合法的、法律に違反しない、正当と認められる」と言う意味です。換言すれば、人間の救いのためなら、律法を犯しても良いとなります。勿論、イエスは律法の本質を否定しているのではありません。律法の本質を取り戻そうとされたのです。しかし、ファリサイ派の人々は、拠り所としていた律法を否定されたと思い、イエスを生かしておくことはできない、何としても殺害しなければならないと言う思いに至りました。

:15節に「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」とあるます。「立ち去る」は「退く、後ろを向く、逃げる」という意味です。「イエスはそれを知って逃げた」となります。「逃げた」では、イエスに相応しくないと言われるかも知れません。しかし、イエスは戦いません。勿論、民衆を煽ることもしません。争わないイエスの中に、救い主たるイエスの本質があります。イザヤの「苦難の僕」は「苦役を課せられて、屈み込み、口を開かなかった。ほふり場に引かれていく小羊のように、毛を切る者の前に物を言わない羊のように、口を開かなかった」と預言しています。イエスは世の支配者とは違い、忍耐と沈黙の救い主です。

イエスは十二弟子を選びするとき、「一つの町で迫害されたら、他の町に逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエル町を回り終わらないうちに、人の子は来る。」と言って命じています(マタイ10:24)。イエスは、世の王が求めるように犠牲や玉砕や殉教を求めません。「逃避、逃亡」を命じます。イエスは、何人もの病人を癒されました。この世の王なら、自分の働きや業績を言い広めます。しかも、イエスは自分のことを言い広めるなと命じています。イエスは、自己宣伝をし、目立とうとしません。イエスは不思議な存在、救い主です。マタイ福音書はイエスを、イザヤが預言した「苦難の僕」と信じました。

預言者イザヤはイスラエルの民をバビロン捕囚から解放するのは「苦難の僕」と信じ、預言しました。ペルシャ王キュロス王が現われました。キュロス王は政治的、経済的、軍事的な強力な力を有していました。イザヤは「彼は陶工が粘土を踏むようしたに、もろもろの支配者を土くれとして踏みにじる。山々を平らにし、青銅の扉をこじ開け、鉄のかんぬきを折る」と言っています。キュロス王は敵を打ち倒し、再び立ち上がることのできないように打撃を与え、自分の思いを達成する独裁者、権力者です。カリスマ的存在で、民衆は心を魅かれていきました。捕囚民も最初キュロスを主が油を注がれた救い主だと崇めました。しかし、キュロス王がメシアではなく、権力と力の王であることが分りました、しかし、預言者イザヤだけは違っていました。イザヤは最初から一貫して、「傷ついた葦を折ることのない、消しかかった灯心を消すことのない」救い主・メシアを預言しています。「見よ」と注意を促していますが、注目しなければならない救い主は、政治的な武力的な救い主ではありません。真の救い主は、「王ではなく、僕」です。相手を踏みつけられたることなど決してしません。傷ついた葦のように打ちのめされている人に、消えそうになっている灯心のように希望を失い孤独に苛まれている人に、寄り添い、倒れないように支える救い主です。

マザー・テレサは、路上で行き倒れになり、死を待つ人の傍らに座り、慰めと励ましを与え、「あなたは掛け替えのない命をもっている。あなたがこの世に生きているということは、真に貴いことだ。」と、主イエスの言葉を伝えました。マザー・テレサを生かしたのは、キュロス王や皇帝アウグストやヘロデ王の出会いではありません。傷ついた葦を折ることのない、消えかかった灯心を消すことのないイエスとの出会いです。マタイ12;35「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」、ルカ10:33「旅をしていたあるサマリア人は、傍に来ると、その人を見て、深く憐れまれた。」とあります。イエスの行動の原点は「深く憐れむ」です。「深く憐れむ」は、原語は「スプランクナ」と言い、「はらわた、腸、はらわたを傷める、人の痛みを共感する」という意味があります。イエスは、悲しんでいる人、苦しんでいる人、深く傷ついている人に、ハラワタを痛め、心傷め、寄り添ってくださいます。コリントⅡ12:9に「わたしの力は弱いところで完全に現れる。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」とあります(協会訳)。わたしが弱い時にこそ、わたしは強い。」。なぜなら主イエスが寄り添ってくださるからです。傷ついた葦を折ることのないイエスが寄り添い、支えてくださいます。