今日のテキストは「ダビデとサウル王」の物語です。ゴリアトを打ち倒したダビデは、サウル王の家臣に召し抱えられ、兵士長に任命されました。たびたび戦場に派遣され、出陣し、その度に勝利し、大成功を納めました。或る日、サウル王とダビデが戦を終えて、帰って来ると、多くの民衆が出てきて、太鼓を打ち、竪琴を奏でて、「サウル王は千を討ち、ダビデは万を討った」と歌いながら、迎えました。それを聞いたサウル王は悔しがり、激怒しました。その日以来、サウル王の心は穏やかではありませんでした。ダビデを妬み、激しく憎むようになりました。サムエル記上8章2節に、サウル王について「美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけが背が高かった」と記しています。サウル王の姿は美しく精悍であったが、心は弱く、妬みの罪で歪んでしまいました。シェクスピアは「オセロ」で、「人間の最大の罪は、人の心の奥深いところにある嫉妬心だ」と言っています。将軍オセロは部下のイアーゴの策略に陥り、嫉妬心に駆られ、遂に妻デズデモーナを殺害してしまいます。
10節に「次の日、神からの悪霊が激しくサウルに降り、家の中で彼をものに取りつかれた状態に陥れた。ダビデは傍らでいつものように竪琴を奏でていた。サウルは、槍を手にしていたが、その槍を振りかざした。ダビデは二度とも、身をかわした」とあります。サウル王は嫉妬に取りつかれ、二度もダビデを殺害しようとしました。サウル王の罪の問題はわたしたちと無関係ではないと言うのが今日のテキストの主張です。ローマの信徒への手紙12章15節に「喜ぶ人と共に喜び。泣く人と共に泣きなさい」とあります。人は泣く人と共に泣くことはできても、喜ぶ人と共に喜ぶことは難しいと言われます。誰でも、サウル王と同じ立場に立たされたら、サウル王のように妬みの心に捉えられるのではないでしょうか。今日のテキストは、どうしたら、この悲惨な罪から救われることができるかを語っているのではないでしょうか。
3節に、「ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛し、彼と契約を結び、着ていた上着を脱いで与え、自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた」とあります。ヨナタンはサウル王の長子で、ヤハウエが与えたという意味です。「上着を脱いで与える」は「自分の命を与える」ことを意味します。1節に「ダビデがサウルと話し終えたとき、ヨナタンの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」とあります。ここにはヨナタンの真の愛とサウル王の妬みという全く相反することが起こっています。その違いは何処から生まれるのでしょうか・・・・。聖書は、その違いを二人の資質や能力に由るのではなく、神との関係、信仰の問題だと言うのです。サウル王は、神に選ばれて王として立てられた存在なのに、神より自分の方を高くしています。神との垂直の関係を失い、神から離れた人間になっています。神は人間を相対化する存在です。神との垂直の関係を失うと、自己絶対化の罪に陥ります。神は人間に、自分は罪深い存在であることを認識させ、赦しを求めさせます。神を失うと自分を神の位置に置き、全ての隣人を自分の欲望や利益の道具と見なし、自己破壊をもたらします。その真理をサウル王の物語は示しているのではないでしょうか。
このサウルの話は、今から三千年も前の話ですが、現代のわたしたちもリアリティーがあります。シェクスピアが言われるように、わたしたちも、妬みや憎しみの罪で心を病み、その癒しを求めています。その癒しをどこに求めたらよいのでしょうか。いろいろな事が考えられますが、最も本質的なことは神への信頼の回復、神との垂直の関係の確立にあると思います。人間が健やかに生きるには、神を真実な神とし、その神に自分を委ねるということが必要であると思います。自分を絶対化する罪から解放され、相対化し、自分を捧げることのできる真の神を見つけ、信じる信仰を人生の根底に置なければ、豊かな人生は生まれないのではないでしょうか。
サウル王とヨナタンとの違いはどこにあるのでしょうか。ダビデとの関係に神が存在するか、しないかのという問題ではないでしょうか。3節に「ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結んだ」とあります。この「契約」は「神の前で契約を結ぶ」ことを意味します。つまり、ヨナタンは神の前でダビデと契約を結んだのです。ヨハネの手紙Ⅰ3章10節に、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」とあります。人間の愛に先立って神の愛があると言うのです。神の愛が先に存在して、その上に人間同士の愛があるのです。神の前に立って,罪を認め、自己を相対化し、神に赦されて、初めて人を愛することができると言うのです。人間は徹底的に謙遜にならなければ、人を愛することはできない、神との垂直の関係がなければ、真の水平の関係は生まれないと言うのです。
わたしたちはなによりも、日々神との垂直の関係を深めていかなければならないと思います。コリントの信徒への手紙Ⅱ5章17節に「キリストに結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」とあります。神にしっかり結びついて、神との垂直の関係を確立し、全てを神に委ねひたすら前進したいと思います。