与えられたテキストはヨシュア記13章1-7節です。1節に「ヨシュアが多くの日を重ねて老人となったとき、主は彼にこう言われた。『あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている。』」とあります。年を重ねて、老人になったと言われていますが、実際は何歳であったかは分かりません。ヨシュアが最初に登場するのは、出エジプト記17章8節です。「アマレクがレフィディムに来てイスラエルと戦ったとき、モーセはヨシュアに言った。『男子を選び出し、アマレクとの戦いに出陣させるがよい。明日、わたしは神の杖を手に持って、丘の頂きに立つ』」に出てきます。また、出エジプト24章12節「主が、『わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい。わたしは、彼らを教えるために、教えと戒めを記した石の板をあなたに授ける』とモーセに言われると、モーセは従者ヨシュアと共に立ち上がった」に出てきます。ヨシュアはモーセと共にエジプトを出立し、40年間荒野の旅をし、モーセがヨルダン川の手前で亡くなると、モーセの後継者に選ばれました。その後、ヨルダン川を渡り、激しい戦いをくり返し、神の約束の地カナンを占領しました。ヨシュア記24章29節には「主の僕、ヌンの子ヨシュアは百十歳の生涯を閉じ、エフライムの山地にある彼の嗣業の土地ティムナト・セラに葬られた」とあります。それらから考えて、今日のテキストはヨシュアの100歳頃の出来事ではなかいか思います。
1節の「あなたは年を重ねて、老人になったが、・・・」の「が」は、ヘブル語の接続詞で「ワァウ」で、「しかし、ところが、にも拘わらず」などと翻訳することができます。原文を直訳すると、「あなたは年を重ねて、老人となった。しかし、ところが、占領すべき土地はまだたくさん残っている」となります。神はヨシュアが年を重ねて、老人になったから、自分の好きなことをし、楽しみなさいとは言いません。まだ、しなければならないことがたくさん残っていると言うのです。マタイ福音書19章24節に「御主人様、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だと知っていましたので、恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました」とありますように、神は厳しく、過酷で恐ろしい存在であるというのです。しかし、本質は違います。詩編57編2節に「憐れんでください。神よ、わたしを憐れんでください。わたしの魂はあなたを避けどころとし、災いが過ぎ去るまで、あなたの翼の陰を避けどころとします」とあります。また、マタイ福音書9章35節には「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆を見て、深く憐れまれた」とあります。「深く憐れむ」は「腸、はらわた」という意味で、人の痛みと弱さにお腹を痛めるほど共感、共鳴することを意味します。神は相手の痛みに共感する憐れみ深く優しいです。コリント信徒への手紙Ⅰ10章13節「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも与えてくださいます」とあります。神は試練や課題を与えますが、その試練に耐えられるように、逃れる道をも与えてくださる。魂の避けどころ、憐れみ深い優しい神であるというのです。
モーセはエジプトから逃れ、ミディアンの地で結婚し、子ども与えられ、平穏な生活を送っていました。その時、エジプトに帰り、イスラエルの民をエジプトから脱出させ、神の約束の地・カナンへ導きなさいという神の言葉が臨みました。モーセは「わたしは言葉の人ではありません。他の誰かを遣わしてください」と拒みました。しかし、最終的には、神の言葉を信じて受け容れ、聞き従いました。モーセは神の言葉を受け入れ信じ、従うことによって、モーセ・引き出す人に成ったというのです。神の言葉は、命じられた者を困惑させ、反発させます。しかし、葛藤を越え、受け入れ聞き従うならば、祝福され、「今日あるは神の恵み」と告白できるようになるというのです。
1節には「占領すべき土地はまだたくさん残っている」とあります。「占領する」は「達成する、完成する」という意味で、「土地」は「使命、目的」を意味です。意訳すると、「達成すべき使命はまだたくさん残っている」となります。この「すべき」は、バプテスマのヨハネが「あの方は栄えネバナラナイ、わたしは衰えネバナラナイ」と告白しているように、神の必然、神の御旨を意味します。ヨシュアがヨシュアに成るための神の使命、本来歩まなければならない神の道を意味します。
ホルヴェルス神父に「最上のわざ」という祈りがあります。「失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、自分の十字架を担う。人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和でいられる。何もできなくなれば、それを謙虚に承諾する。神は最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手はなにもできない。けれども最後まで、愛するすべての人のために、神の恵みを求めて祈ることはできる。」とあります。神は何歳になっても、地上に生きている限り、使命を託すというのです。ヨシュアは百十歳の生涯を終えるまで、主に心の目を向け、輝く日に向かって生きたというのです。
八木重吉に「どこを断ち切っても美しくあればいいなぁ」。「綺麗な桜の花を見ていると、そのひとすじの気持ちにうたれる」「花はなぜ美しいか、ひとすじの気持ちで咲いているからだ」という詩があります。重吉は「どこを断ち切っても、・・・」、20歳の時、40歳の時、60歳、80歳の時、どこを断ち切っても美しくありたいと願い、主が願っていると言うのです。ヨシュアも年を重ね、老人となったが、どこを断ち切っても美しくありたい、つまり、完成すべき使命があるというのです。神の言葉を信じ受け入れ、前進したいと思います。