与えられたテキストはヨシュア記14章6-15節の「カレブ物語」です。カレブはモーセに従い、エジプトを出立し、40年間荒れ野の旅をし、モーセの死後、ヨシュアと共にカナンを獲得するために戦った将軍です。ヨシュアが神の約束の地・カナンを獲得するために貢献したことは知られていますが、カレブのことは余り知られていません。しかし、カレブの存在なくして、イスラエルの民がカナンに侵入し獲得することは考えられません。カレブは歴史の表舞台に立つことはなく、人知れず亡くなり、埋葬された場所も分かりません。カレブは極めて地味な存在で、徹底的に脇役に徹しました。その点に、カレブの存在の意味があったということができるのではないでしょうか。
カレブを思い起こすとき、バルナバを思い出します。バルナバは初代教会にとってパウロと並んで大事な人物でした。しかし、現実の歴史はパウロが初代教会に中心人物になりました。パウロの伝道によって小アジア・マケドニア・ギリシャに教会は生まれました。また、初代教会の信仰を組織的、理論的にまとめ、キリスト教を世界宗教に育てたのはパウロです。パウロなくして初代教会は存在しません。同様にバルナバの存在なくして、パウロの存在はないと言えるのではないでしょうか。
パウロは初代教会を荒らしまわり、教会の迫害者として恐れられていました。その迫害者サウロは、ダマスコの途上でキリストと出会い、悔い改め、洗礼を受け、キリストの信仰者となりました。バルナバはパウロをタルソスで見つけ出し、エルサレム教会のペトロやヤコブに紹介しました。しかし、エルサレム教会は迫害者パウロを恐れて受け入れることに抵抗しました。その反対を押し切って、パウロがエルサレム教会に受け入れられたのは、バルナバの執り成しがあったからだと思います。バルナバの執り成しがなければ、パウロがエルサレム教会に受け入れられることはなかったはずです。その意味ではバルナバなくして福音伝道者パウロの存在はありません。
パウロとバルナバは初め協力して福音伝道に携わりました。しかし、やがて、バルナバとパウロは若い弟子のマルコをめぐって対立し、別々伝道することになりました。心の優しいバルナバはマルコを連れてキプロス島へ伝道に向かいました。バルナバのその後は何も記されていません。初代教会の歴史から消えてしまいました。しかし、バルナバは初代教会の歴史に欠かせない存在です。バルナバなくして初代教会の歴史はありません。カレブの存在も同じです。カレブなくしては、イスラエルのカナン進入はあり得ません。言い換えれば、神の御業はカレブやバルナバのような存在なくして在り得ないということができます。
パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰ12章で、教会という共同体を人間のからだにたとえています。キリストを頭にして、それぞれ体の一部分だというのです。ある者は目であり、口であり、耳であり、手であり、足であります。どれ一つをとっても欠かせない器官です。手が足に向かって「必要がない」と言うことはできません。口は目に向かって「必要がない」と言うこともできません。同じ様にどの人もキリストにとっては欠くことのできない存在であるというのです。12章22節には「それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも格好が悪いと思われる部分を覆って、もっと格好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました」とあります。神は見栄えがするところには光を与えず、かえって見栄えにしないところに光を与え、土の器に過ぎない者を用いるというのです。
民数記13章によると、カレブはモーセからカナンを攻略するために、ヨシュアと他の10人斥候共に偵察に派遣されます。やがて彼らは偵察を終えて戻り、報告をします。10人の斥候は「カナン人はわれわれよりも遙かに強い。戦っても破れる。戦うのは不可能だ。無駄だ」と報告しました。ところが、カレブは「断然戦うべきだ。われわれには主なる神が共にいる。勇気と信仰を持って戦うならば、必ず勝利します」と進言しました。カレブ以外の10人の偵察隊員は「やっても仕方がない。どうしようもない。無駄だ」と、否定的、悲観的、消極的です。それに対してカレブは「できる。神が共にいるから、やってみよう」というのです。カレブは肯定的、積極的です。カレブと10人の偵察隊の違いはどこにあるのでしょうか。10人の偵察隊は目の前にある現実に対して、人間的な考えと肉の思いだけで、情況を判断したのです。それに対して、カレブは信仰の目を持って、神の可能性に賭け、神によって道は開かれることを確信し、その情況を信仰的に判断したのです。
羽仁もと子さんは、「人は、信仰がなければ、やっても駄目だ、仕方がないと悲観的、消極的、否定的な考えになっていく。厳しい現実に直面した時、やっても駄目だ、仕方がないと諦めてしまうのではなく、神が共にいることを信じて、やってみよう、できると肯定的、積極的な者でありたい」と言っています。フィリピの信徒への手紙4章11節に「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしはすべてが可能です」とあります。神は積極的、肯定的に、前を向いて生きることを求めておられます。どのようなことに出会っても、神の喜ばれる信仰を確立し、前向きに創造的な信仰を培っていきたいと思います。「わたしを強めてくださる方のお陰で、すべてが可能です」。神は前向きに、肯定的、積極的に生きることを望んでおられます。神の御旨に答えていきたいと思います。