預言者エリヤが活動した時代はイスラエルがソロモン王の死後、「南ユダ王国」と「北イスラエル王国」に分裂した時代です。エリヤは北イスラエル王国のヨルダン川の東側ある寒村のギレアドのティシュベの出身で、時代はアハブ王時代です。首都は南ユダのエルサレムに対してサマリアに定めました。アハブ王はフェニキアの王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、フェニキアと同盟を結び、交易を開き、繁栄を得ました。更に、サマリアの山を強制没収し、山頂にバアルの神殿と遊興施設を建設し、多額の利益を得ました。ところが、そのことがオムリ王朝の崩壊の始まりになりました。
何時の時代もそうですが、物質的な繁栄の背後には、必ず影と負の部分があります。イゼベルによってバアルの宗教が北イスラエルに入ってきました。アハブ王はバアルの宗教に傾倒し、サマリアの山に「バアル」の神殿を築き、バアル宗教を公認しました。バアルは、セム語では「所有者、オーナー、夫」と言い、「土地の所有者」を意味しました。女神をアシュラと言い、バアルとアシュラの神は穀物の豊穣をもたらし、商売を繁盛させ、ご利益をもたらす神、豊作の神です。アハブ王は目に見える物質的豊かさ、経済発展で権力を維持するためにバアル宗教を利用しました。民衆もご利益を求め、バアル宗教を受け入れました。アハブ王はヤッハウェの信仰を求めることはありませんでした。サマリアの山頂で行われていたことは、宗教と言いながら、金儲けと遊興でした。アモス書2章6節に「わたしは決して赦さない。彼らが正しい者を金で、貧しい者を靴一足の値で売ったからだ。彼らは弱い者の頭を地の塵に踏みつけ、悩む者の道を曲げている」とあります。彼らの関心事は人間の真実や真理、愛、自由ではなく、お金や物の豊かさ、ご利益でありました。その結果、不正、腐敗、汚職、退廃、残虐な事件が起こり、北イスラエルは乱れ、退廃していきました。そのような時代の中で、預言者エリヤは義と公平と愛を訴えました。
7節に「その川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからだ」とあります。「涸れる」は「心の渇き」を意味します。アモスが「飢饉と渇きがくるが、しかし、その飢饉と渇きは、パンに飢えることでも、水に渇くことでもない、主の御言葉を聞くことのできぬ渇きと饉飢だ」と預言しています。「涸れる」とは、主なる神に従う信仰の渇きです。愛、正義、心の優しさが枯れ果てたのです。エリヤは、アハブ王に対し「それまでのどの王にまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った」と厳しく告げています。そのために、アハズ王から迫害を受け、身の危機が迫りました。
その時に、エリヤに神の言葉が臨みました。「ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ」と。エリヤはアハブ王の追跡を逃れて、三年間身を隠しました。そこで、エリヤは大事な、より本質的なことを経験し、学びました。
4節に「その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる」とあります。ある人たちはこの「烏」は、原語で「オレブ」と言い、その綴りは「アラブ」と似ています。ですから、「カラス」を「アラブ」と読み替え、「アラブに命じて、・・・・」と合理的に読もうとしています。しかし、それでは本来のメッセージを読み取ることはできません。
原文は、「わたし、主なる神は・・・・」なっています。主なる神が主体で、主なる神は必ず食べ物を与え、養うというのです。マルコ福音書10章27節に「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」とあります。わたしたちを究極的に養うのはヤッハウェ、主なる神だというのです。エリヤは烏に養われることを通して、ヤッハウェの主なる神を信じ、主を信頼することを学ぶのでした。
イスラエルの民は、40年の曠野の旅の中で、その事実を学びました。エジプトから救い出され、モーセに導かれて曠野の旅を続け、飢えての苦しみを経験しました。その時に、マナという不思議な食べ物を与えられ、養われました。喉が渇ききった時には、モーセが杖で岩を打ち、水を流れさせ、渇きをいやされました。その不思議な出来事を通して、神が生きて働かれることを確信しました。真の養い主は、ヤッハウェ・主なる神であることを知り、信じました。
しかし、イスラエルの人々は、カナンに定住し、王国を建設し、交易を盛んにし、経済的に、軍事的にも力を持つようになりました。すると、曠野で養われたヤッハウェの神を忘れ、主なる神への信頼を捨て、謙遜さを失い、バアルを信仰するようになりました。主なる神でなく、物の豊かさ、金に頼るようになりました。その中で、預言者エリヤはケルト川のほとりで神の不思議な養い、配慮の事実を経験しました。真の助け手、養い主は主なる神であることを知り、主なる神に絶対的な信頼を置くのでした。
マタイ福音書6章25節に「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくれる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。・・・・、あなたがたの天の父は、これらのものがあなたがたに必要なことはご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」とあります。どのようなことがあっても、究極的に神がわたしたちを生かし、支え、命を与えてくださると言います。主イエスは、言葉を通して、行動を通して、神は生きて働き、私たちを支え、養ってくださることを伝えています。主イエスの言葉と事実を信じて、前に向かって前進して行きたいと思います。