2019年11月10日 フィリピの信徒へ手紙2章16,17節 「労苦は報われる」

 与えられたテキストはフィリピ信徒への手紙2章16、17節です。16節に「こうしてわたしは自分が走ってきたことが無駄でなく、労苦したことが無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう」とあります。この文章は、12節の「わたしの愛する人たち」で始まっています。この親しみを込めた呼びかけは、パウロが重要なことを伝える時に用いる言葉です。つまり、パウロは「走ってきたことが無駄でなく、労苦したことが無駄ではなかった」ことをどうしても伝えたかったのです。「労苦したことが無駄でない」は、コリントの信徒への手紙Ⅰ15章58節「わたしの愛する兄弟たち。こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことをあなたがたは知っているはずです。」にも用いられています。このコリントの信徒への手紙の15章は、キリストの復活信仰を弁明している箇所です。自分の労苦が無駄でなはなく、報われるという信仰は復活信仰と同じであるというのです。復活信仰は自分の復活を信じることであるが、同時に労苦が無駄でないことを信じることである。つまり、パウロは自分の労苦が無駄でなはなく報われるという信仰は復活信仰と同じであるというのです。
フィリピの町は、15節に「よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかりたもつでしょう」とありますように、マケドニア州のローマ化された世俗都市で、占いや呪術、癒しの業、様々な偶像礼拝、金儲けの新興宗教が盛んに行われていました。そうした典型的な異教、世俗社会での信仰生活でしたので、キリスト者として生きることは大変苦難と労苦でした。
 フィリピの信徒への手紙が書かれた年代は60-63年頃だと言われます。64年には、皇帝ネロのキリスト教徒迫害が起き、殉教者が出て、教会に信仰的動揺に襲われました。多くの人々は、信仰のために苦難を負うのは不条理で矛盾している。人生は虚しいと、疑い、諦め、絶望するのでした。パウロはその理不尽で不条理な状況の中で「自分が走ってきたことが無駄でない、労苦したことは無駄ではない」と言うのです。
パウロはかつてファリサイ派で、律法に人一倍熱心で原理主義者でしたからキリスト者を許すことができず迫害を加えました。シリアの教会を迫害するためにダマスコへ向かう途中で、復活のキリストと出会い、キリストを信じる者に変えられました。パウロは救われ、使徒とされ、異邦人に福音に伝えるミッションを与えられました。それから、30数年一筋に福音伝道に尽くしました。しかし、その福音伝道は並大抵ことではありませんでした。コリントの信徒への手紙Ⅱ11章16節に、「迫害されたこと、投獄されたこと、むち打たれたことは数え切れない。飢え乾きに苦しみ、眠れない夜を過ごした、死ぬように目に度々遭いました」とあります。パウロの生涯は十字架のイエスのように、不条理に遭われ、苦難と労苦の生涯でした。しかし、パウロはその不条理な人生を虚しく思い、絶望しませんでした。それは、パウロの心の中に「走ってきたことが無駄ではなく、労苦したことが無駄ではないことが、キリストの日に誇ることが出来る」という終末論的信仰、希望があったからです。
「誇ることができる」の「誇る」は、所謂、「誇り」ではなく、元来は「喜ぶ、報われる」という意味で、少し言い換えると「神に認められる、神に報われる」という意味です。走ってきたこと、苦労したことが神に認められ、神は報いてくださるというのです。「キリストの日」は、キリストの再臨の日と神に召される日を意味します。テモテの手紙Ⅱ4章6節に「わたしが世を去る時がきた。わたしは戦いをりっぱに戦い抜き、走るべき行程を走り尽くした。今や、義の冠がわたしを待っているばかりである」とあります。「わたしが世を去る時」が「キリストの日」です。「義の冠が待っているばかりである」は、言い換えれば、「労苦は報われる」となります。 
 日本で最初に在宅ホスピスを始めた川越厚先生は「人は死と向き合うとき、それまで生きてきた人生を問う。そして、その時人を苦しめるのは、自分の人生が無駄であったという空しい思いである。しかし、逆に、今まで生きてきたことが無駄ではなかったという神の言葉を聞くと、人は永遠の平安と永遠の命を得る。」と述べています。神はキリストの十字架の生涯を通し、あなたの人生は無駄ではなかった、あなたの労苦は決して無駄にならないと宣告してくださっているのです。
 知人に厳しい人生を歩まされている方がおられます。二人の子どもが与えられましたが、初めの子は3歳で心臓の病で亡くなり、2番目の子も心臓の先天性の疾患で、高校三年生時に急死されました。更に不条理にも、連れ合いは、ALS(筋萎縮性側索硬化症)症で、人工呼吸装置をつけての入院中に、人呼吸装置がはずれるという事故で亡くなりました。彼はヨブのように、不条理な辛く苦しい人生を歩まれました。しかし、彼は、いつもしっかり毅然として歩んでいます。彼に生きる勇気と希望を与えているのは、「走ったことが無駄ではない、労苦したことが決して無駄でない、神によって報われる」という信仰です。世を越えた永遠の命、神の希望を与えられているのです。詩編126編5節に「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」とあります。「自分が走ってきたことが無駄でなく、労苦したことが無駄ではなかったと、キリストの日に神に報われるでしょう」という信仰に支えられて歩んで行きたいと思います。