2019年11月17日 フィリピの信徒への手紙2章25-30節「憐れみ深い神」

 「宗教」という言葉ですが、ラテン語のreligio(レリギオ)を翻訳したと言われています。「レ・再び」と「リギオ・結ぶ、繋ぐ」です。英語では「religion」で、「再び結ぶ、繋ぐ」などの意味です。つまり、「人と神、人と人が再び結びつく、繋がる」という意味です。河合隼雄さんは「宗教」について、「息子の家庭内暴力に苦しむ家族」を譬えています。「親が暴力を振う息子に『お前の欲しいものは何でも与えてきたのに、何の不足があるのか』と叱責すると、息子は『家(うち)には宗教がないじゃないか』と文句を言った」というのです。つまり、息子の言う「宗教」は冠婚葬祭の宗教ではなく、religion・神と人と、人と人とを結びつける宗教です。そのreligionがないと文句を言ったというのです。
村上春樹さんは「この国はすべてがあるが、希望だけがない」と言っていました。言い換えれば、「この国にはすべてがあるが、真の宗教がない」ということになります。アモス書8章11節に「主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」とあります。預言者アモスは宗教と信仰を失った世について預言しています。主の言葉を聞く飢饉、つまり、人と神との繋がり、人と人の繋がりの喪失のために、イスラエル王国は滅亡するというのです。実際、アモスの預言後、721年、北イスラエル王国は滅亡します。言い換えれば、人間が人間らしく生きていくためには、宗教・religionは無くてはならないものであるというのです。パウロも、ここで人は神との繋がり、人との繋がりがなければ生きていけない真理を伝えているのです。
25節に「ところでわたしは、エパフロディトをそちらに帰さなければならないと考えています。彼はわたしたちの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれました」とあります。エパフロディトは獄中のパウロを支援するために、フィリピ教会から派遣されました。しかし、ローマに来て、しばらくして、病気になります。長旅の疲れやホームシックで、心労が重なり、不本意にも心の病を患ってしまいました。
 26節に「しかし、しきりにあなたがた一同と会いたがっており、自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っているからです」とあります。彼はパウロを援助するために教会から派遣されて来たのに、責任を果すことが出来ず苦しんでいました。自分は駄目な人間だと自責の念に囚われ、うちひしがれ、絶望していました。マルコ福音書2章17節に「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とありますように、パウロは責任を果てせないエパウロディトを責めるのではなく、優しい心をもって寄り添っているのです。
 29節に「だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。彼のような人々を敬いなさい」とあります。この「敬う・ルペー」は「尊重する」です。旧約では、「ヤーカル」と言い、イザヤ書43章3節の「わたしの目にはあなたは値高く、貴い」の「貴い」で、「尊重する、重んじる」という意味です。パウロは、挫折し、未来に希望を見出せないで、絶望しているエパフロディトをかけがえのない存在と尊重し、受け入れています。傷ついたエパフロディトを神と教会に再び結びつけています。それがパウロの宗教・信仰・religionです。
使徒言行録27章に、迫害を受け捕えられたパウロがエルサレムからローマに護送される場面があります。船がカイサリアから出航する時は「エウラキロン」と呼ばれる暴風が吹き荒れる季節でした。パウロは危険だと出港を反対しました。それでも船長は船を出航させ、パウロが警告したようにエウラキロンの暴風に襲われました。船長、船員、百人隊長や護衛の兵士ら、全部で276人に乗っていました。皆パニックに陥り、もう駄目だと絶望に陥りました。その時、パウロが立ち上がり、「元気を出しなさい。船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失うものはいないのです。わたしは神を信じています。全てを救われる神を信じなさい。元気を出しなさい」と叫びました。囚人のパウロが絶望している船長、百人隊長、兵士たち、船乗りら全部を勇気づけ、希望を与えたのです。このパウロの出来事は、宗教・信仰・religionは何であるかを伝えています。つまり、希望のないところで、神の希望を証しすることです。言い換えれば、人を神に結びつける、強く繋げることです。心弱くしている人に、希望、慰め、勇気を示すことです。パウロは失望落胆し絶望するエパフロディトに希望を与え立ち上がらせるのでした。
アルフォンス・デーケンさんは、モーリヤックの墓碑銘に書かれている言葉、「私は、幼な心に信じたことを、今もそのまま信じている。人生には意味がある。行く先がある。価値がある。一つの苦しみも無駄にならず、一粒の涙も、一滴の血も忘れられることはない」を引用し、人は最後まで、人に希望と勇気を与える存在、人に永遠の希望を指し示す可能性を持っていると言います。勿論、わたしは、パウロでも、使徒でも モーリヤックでもありません。赤岩栄さんが「絶望の名人」というように、すぐ呟き、叫び、絶望してしまう弱い存在です。しかし、神はその弱い、土の器に過ぎない者に、希望を与え、その希望を伝えるようにと生かしてくださるのです。
27節に「神は彼を憐れんでくださいました。彼だけでなく、わたしをも憐れんでくださいました」とあります。「憐れみ」は「神の一方的な恵みと恩寵、無償の救い」を意味し、何の力もなく、働きもない者に与えてくださる希望です。デーケンさんが言われるように、神の希望を指し示す者となり、人を神に、人に結びつける福音を指し示す者でありたいと思います。