2019年11月3日 列王記上17章8-24節 「見えないものに目を注ぐ」

 預言者エリヤは、時の王アハズが広めたバアル宗教や悪政、強権政治を批判したために、激しい迫害を受け、生命の危機に直面しました。それを知った神はエリヤに命じました。「立って北の果てのシドンのサレプタへ行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる、と。エリヤはサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた」とあります。「やもめ」は当時の社会では最下層に属し、一番弱い存在でした。ルツ記のルツのように、農家が畑に残しておいてくれた落ち穂を拾って生き延びなければならないほどの最貧層で、最も弱い存在でした。エリヤはその貧しい弱いやもめによって養われたというのです。
エリヤは薪を拾っていたやもめに、「器に少々の水を持って来て、わたしに飲ませてください。パンも一切れ、手に持って来てください」と頼みました。彼女は驚き、「わたしには人にあげるパンなどありません」と言いました。彼女の家に残っているのは、わずかな粉と油です。彼女は今、それでパンを作り、それを食べて、息子と一緒に死のうとしていたのです。エリヤは死線をさまよっていた者に、パンをめぐんでほしいと頼んでいるのです。
 預言者エリヤは彼女に言います。「恐れてはならない。帰って、あなたに言ったとおりにしなさい。だが、まず、それでわたしのために小さいパンを作って、わたしに持ってきなさい。その後、あなたとあなたの息子のために作りなさい。なぜならイスラエルの神、主はこう言われる。『主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない』」と。彼女がその通りにすると、壺の粉と瓶の油は尽きることがありませんでした。神は、やもめと彼女の息子を救われ、エリヤに確信を与えました。神は奇しき御業を行います。神は最も小さな、最も貧しいやもめ、小さな存在を用いられるのです。
 コリントの信徒への手紙Ⅰ1章26節に「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけではありません。ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位ある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下されている者を敢えて選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです」とあります。このパウロの言葉は真実だと思います。イザヤ書41章13節に「わたしは主、あなたの神。あなたの右の手を固く取って言う、恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ。イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける」とあります。神はいと小さき者、弱き者を敢えて御自分の栄光のために用いられるのです。
 サレプタのやもめに、不条理な出来事が起こります。ひとり息子が亡くなります。彼女は生きていても仕方がないと絶望しました。彼女はエリヤに言います。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」と。子どもを亡くした親は、自分が悪かったと自分を責め、後悔します。不幸な出来事の原因を探します。「わたしが罪や過ちを犯したからだ」と理由をつけ、納得しようとします。しかし、そこからは絶望しか生まれません。ヨハネ福音書9章には、イエスが弟子たちと「生まれつき目の見えない人」をめぐって論争する場面があります。弟子たちが、生まれながらの目に見えない人について、「この人は罪を犯したからですか。それとも、両親が罪を犯したから、その報いの表れですか」とイエスに尋ねます。すると、イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の御業がこの人に現れるためである」と言うのです。
 エリヤは「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女から息子を受け取り、自分のいる屋上の部屋にその子を抱えて上り、寝台に寝かせ、子どもの上に三度身を重ねて、「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と主に向かって祈りました。神はエリヤの祈りを聞き、その子の命を元にお返しになった、といいます。やもめは「今わたしは分りました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と告白しています。絶望の淵に立たされたやもめは生きる希望と勇気を与えられたと言うのです。
 この貧しい、今まさに死のうとしているサレプトのやもめと子どもが生き返えされる出来事とケリト川のほとりで、烏に養われるという出来事は、エリヤにとって生きる原点になり、バアルの神を崇拝するアハズ王と戦う備えになりました。主なる神こそ唯一の救いの源だという信仰を知るのでした。その意味では、ケリトやサレプトの逃亡は無駄に見えますが、神の目から見れば、重大な意味を持っていました。イエスは最後の晩餐で、弟子たちの足を洗いながら、洗足を拒むペトロに「今は分らないが、後でわかるようになる」と言います。何事も、渦中にいる時には、深い意味を捉えきれません。信仰をもって、後を振り返れば、重要な意味を持っていることが分かります。その時は神の働きは隠されているというのです。コリントの信徒への手紙Ⅱ4章18節「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」とあります。目に見えない出来事の中に、神は生きているという事実を発見していきましょう。見えないものに目を注ぎ大切にし、意味を見出していきたいものです。