今日はイースターです。イエスの復活物語を見ますと、イエスは金曜日にポンテオ・ピラトによって死刑の宣告を受け、十字架につけられ、午後3時に息を引き取られました。陽が沈むと安息日に入りますので、アリマタヤのヨセフが大急ぎで、イエスの遺体を引き取り、近くの横穴式の墓に埋葬しましたが、安息日が終わるまで墓を訪ねることができませんでした。マグダラのマリアをはじめ女たちは、安息日が終わった日曜日の朝の明け方早く墓に向かいました。彼女たちが墓に着くと、墓の入り口に蓋にしてあったはずの大きな石が、横に転がされていました。驚いたマリアはすぐにペトロに、「主の遺体が墓から盗まれた。どこに置かれているか分らない」と知らせました。ペトロは急いで墓にかけつけ、墓穴の中に入って行きました。イエスの遺体はなく、遺体を包んだ布だけありました。ペトロは、イエスを裏切ったことを後悔し打ちひしがれていました。それに追い打ちかけるように、イエスの遺体がなくなってしまったのです。彼らは失望落胆して、ガリラヤに帰って行きました。マグダラのマリアだけは墓から離れることができず、墓の前で泣いていました。
15節に「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」とあります。イエスの遺体を捜していることがローマの兵士に知れたら大変なことになります。それでも、マリアはイエスの遺体を引き取り、自分の手で守りたいというのです。17節に「わたしにすがりつくのはよしなさい。」とあります。マリアはかつて七つの悪霊を持ち苦しんでいたとき、イエスに癒され救われました。マリアにはイエスに対して熱い思いがありました。しかし、マリアの姿勢には根本的な問題があるというのです。つまり、マリアが新しい存在にならないで、古い自分のままで復活の主イエスに向かい合っていることを戒めています。マリアは復活の主イエスに出会うことによって、新しく生まれ変わなければならないというのです。
15節には「イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。誰を捜しているのか』。マリアは園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』。「イエスが、『マリア』と言われると、彼女は振り向いて、ヘブル語で、『ラボニ』と言った。『先生』という意味である」とあります。マリアは、「婦人よ」と呼びかけられた時には、振り向くことはできませんでした。しかし、「マリア」と、固有名詞で呼びかけられると、マリアは振り向いて「ラボニ、先生」と答えたというのです。この「後ろを振り向く」は、ギリシャ語で「メタノイアー」と言って、「方向転換する、向きを変える」という意味です。マリアの存在、生き方が変えられたことを意味します。墓穴に向かっていたマリアが180度転換し、主イエスの方に向き、イエスを前に置いて生きる者になったということです。主イエスに「マリア」と呼びかけられたマリアは180度方向転換させられたのです。イエスの復活を信じる信仰は180度の方向転換が起こることを意味します。闇から光へ、悲しみから喜びへ、絶望から希望へ、挫折から信頼へ、死の支配から命の支配へと、わたしたちの存在が方向転換することです。それが主イエスの復活の出来事です。
フィリピの信徒への手紙3章7節に、「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです」とあります。復活のキリストを信じる信仰によって、今まで絶大の価値あるものと見えたことが、無価値に見え、今まで無価値であったものが絶大の価値を持つものとなった。そのような価値観の転換が起こる。それが主の復活を信じる信仰であるというのです。
ヨハネ福音書20章27節では、イエスは、復活の主イエスを信じることのできないトマスに現われ、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」とトマスを慰めています。見ないのに信じる者に、信じない者から信じる者に変えられる。それが復活の主イエスとの出会いであるというのです。
21章では、復活の主イエスと弟子たちの出会いが記されています。弟子たちはイエスが十字架につけられたとき、イエスを裏切り、故郷のガリラヤに逃げて来て、元の漁師生活をしていました。彼らはすることもなく、仕方なく舟を沖に出し魚をとろうとしました。しかし、何もとれませでした。彼らは虚しい思いで、岸辺に帰ってきました。その時復活の主イエスが岸辺に立っていました。「何か食べるものはあるか」と尋ねました。彼らは「ありません」と答えました。「舟の右側に網を打ちなさい」と言われました。弟子たちは、復活の主イエスの言葉に従い海に網を打ちますと、不思議なことですが、網を引き揚げることができないほど魚が取れたというのです。弟子たちは、その収穫の重みを腕に、腰に、足に体、全体に感じるのでした。ペトロは裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込む、岸辺に向かった「主イエスだ」と叫びながら泳いでいったといいます。彼らは失望落胆し、虚しい思いに打ちひしがれている者から、希望を持ち、生きる勇気を与えられたのでした。詩編115編1節に「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように」とありますように、彼らは神の栄光を表す者に変えられるのでした。イエスの復活信仰は、信じない者を信じる者に、希望なき者が希望を見出す者に変えてくださいます。その真実を信じて、主に従っていきたいものです。