2019年4月28日 ルカ福音書19章28-40節 「子ろばに乗るイエス」

  • 投稿カテゴリー:全て / ルカ書

 与えられたテキストはルカ福音書19章28-40節で、イエスがエルサレムに入城した時のことが記されています。その時、イエスは二人の弟子を遣わし、向こうの村へ行きなさい。そこに入ると、まだだれも乗ったことのない子ろばがつないであるのが見つかる。それをほどいて引いて来なさい。もし、だれかが、「なぜほどくのか」と尋ねたら、「主がお入用です」と言いなさいと命じました。使いに出された者たちが出かけて行くと、そのとおりであった。ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが「なぜ、子ろばをほどくのか」と言った。二人は「主がお入り用です」と答えた。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せになった。イエスは子ろばに乗って、エルサレムに進んで行かれたというのです。
ローマの皇帝アウグストゥスもポンテオ・ピラトも立派な軍馬に乗ってエルサレムに入城しました。王なら誰でも背の低いろばではなく、馬上の高い軍馬に乗って颯爽と入城します。しかし、イエスは両足が地面についてしまう背の低い子ろばに乗って入城したというのです。
 イエスは、なぜ子ロバに乗って入城されたのでしょうか。それは旧約聖書の預言が実現するためです。ゼカリヤ書9章9節に「見よ、あなたの王はあなたの所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ろばに乗る。すなわち、ろばの子である子馬に乗る」とあります(口語訳)。このゼカリヤ書9章9節の預言に従って、イエスは自らを表そうとされたのです。つまり、イエスは「柔和の王」としての自らを現したのです。この「柔和」の「柔」は、漢字では「矛」と「木」の会意文字で、弾力のある木のこと、曲げても折れないしなやかさを意味します。「和」は、禾篇に口です。禾編は粟の穂のまるくしなやかにたれた様子を表します。その禾編に「口」で、言葉のしなやかな、柔らかという意味です。「柔和」は、しなやかで優しい、人に寄り添い、人の慰めになる存在を意味します。この「柔和な王」は、人を支配し服従させるのではなく、人に寄り添い、人を活かす存在です。人に寄り添う柔和な王こそイエスであるというのです。
 「ろば」は昔から「愚か」という意味をもっていて、卑しめられている者の代名詞であると言われています。例えば、彼はろばみたいな人というと、のろまで、値打ちのない人のことを意味しました。その愚かに見える子ろばに乗って、イエスは自らを柔和な王として現すためにてエルサレムにお入りになったというのです。
時は過越の祭りでした。大群衆が巡礼のためエルサレムに集まりました。その群衆の中を、イエスは自らの力を誇示する軍隊を先立たせることもなく、両足が地面を引きずるように子ろばに乗ってエルサレムにお入りになったのです。イエスの優しさがあふれ出ています。愚かな者を敢えて選ばれる優しさ、滑稽な扱いを受けることをさえ厭わないで、むしろお喜びとされる優しさです。荒々しい馬で、人を蹴散らして、入城するイエスではありません。イエスのいつも人に寄り添い、罪を赦す愛を示されたのです。
宗教改革者ルターは「子ろばに乗って入城するイエスの姿は貧相な姿である。しかし、その姿には罪の装いは全くない。全き義の装いである」と言っています。ルターは、はじめ神は義なる方であるから、人間は義なる神に応えて義なる者にならなくてはならないと自分を厳しく責めていました。しかし、聖書を読んでいくうちに、それは間違いであることに気づきました。神の義は憐れみであることを知るのでした。神は罪を赦し、罪深い者に寄り添い、共におられる方であることを知るのでした。イエスは軍馬に乗る颯爽とした王ではなく、ろばの子に乗る貧しい方こそ真の救い主・キリストであるというのです。
 マタイ福音書6章7節に「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」とあります。イエスはわたしたちが求めない先から、必要なものをご存知です。わたしたちに先立つ優しさを持った方です。その優しい救い主イエス・キリストが、今ここに登場されたのです。イエスは敢えて子ろばを選ばれ、その子ろばにお乗りになられたのです。イエス以上の柔和な者は存在しないというのです。
 マタイ福音書11章29節に「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」とあります。イエスは限りない柔和さをもって、わたしたちに寄り添ってくださいます。同時に、わたしたちに柔和であることを求められます。イエスに従う者は柔和に生きなければいけないというのです。しかし、その柔和の道に生き得るのは、ろばの子に乗るイエスの優しさの結びつくことではじめて可能です。詩編46編11節には「力を捨てよ、知れ、わたしは神」となります。力を捨て、柔和な王・主イエスを迎え入れましょう。そこでのみ救われ、人として生きることへの望みを持つことができます。詩編20編8節に「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える」とあります。ろばの子にお乗りになる主イエスに従い、主イエスのみを崇め、栄光を帰したいと思います。