2019年5月19日 ルカ福音書20章9-19節「家を建てる者の捨てた石」

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 イエスは一つのたとえ話をお話されました。ある主人がぶどう園を造り、それを農夫たちに貸して、長い間留守にしました。そして、時が来て、主人は農夫たちのところに僕を遣わして、彼らの収穫を納めさせようとした。しかし、農夫たちは、主人の遣わした僕を袋叩きにして、何ももたせないで追い返しました。主人は、そこでまた、他の僕を送りましたが、農夫たちはこの僕も袋叩きにし、侮辱して何も持たせないで追い返した。更に三人目の僕を送りましたが、農夫たちはこの僕も傷を負わせて放り出しました。そこで、ぶどう園の主人は、「わたしの愛する息子を送ろう。愛する息子なら敬うだろう」と言って、自分の息子を送りました。しかし、農夫たちは「これは跡取りだ。殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる」と言って、主人の愛する息子を殺してしまいました。このたとえ話を聞いていた民衆は「そんなことがあってはなりません」と言った、というのです。
この「そんなことがあってはなりません」はとても強い調子の言葉です。ローマの信徒への手紙6章1節の「では、わたしたちは、なんと言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。断じてそうではない。」、15節の「それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない」の「断じてそうではない」と同じ言葉です。民衆は主人の愛する一人子を殺す、そんな理不尽なことは、断じてあってはならないというのです。しかし、現実的には、彼らが否定している神の独り子であるイエスが十字架につけられたのです。「断じてあってはならない」と言った二日後には、「十字架につけよ、十字架につけよ」と叫んでいます。矛盾していますが、それが現実です。イエスは十字架上で、「彼らは何をしているのか分からないのです。彼らをお許しください」と祈られたように、彼らは自分の罪に気付いていません。今日のテキストは、わたしたちは自分でも気付かない弱さ、罪を持っている事実を認識し、その罪の赦しを受けなければならないというのです。
 あるカトリック教会では礼拝の中でひざまずいて祈りを捧げるために、自分の座席の前にクッションが置いてあるそうです。ひざまずき身を低くすると、頭を高くしたままでは見えないことが見えてくる。その事実を大事にしなければならないというのです。今日のテキストは、イエスを自分の前に置いて、自らを低くすることの勧めです。イエスの前にひざまずく時、根本から見方が変えられます。フィリピの信徒への手紙2章6節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようと思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死にいたるまで、それも十字架の死にいたるまで従順でした」とあります。わたしたちもイエスに倣って謙遜になり、罪を認め、赦してもらう存在であることを認識しなければならないというのです。
 16節に「彼らはこれを聞いて、『そんなことがあってはなりません』と言った」とあります。主人の愛する息子を殺すという流れを止めようとしましたが、彼らの力では止めることはできませんでした。同じ様に、イエスの十字架と復活への道は、誰も止めることはできません。イエスの十字架の道は神の定める道です。イエスは「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と告白してきました。「必ず」は神の必然です。神の御旨で、人間がその流れを止め、変えることはできないというのです。勿論、運命論や諦観、厭世観の勧めではありません。十字架と復活の道である神の救いは、神の必然、必ず与えられるというのです
 20章17節に、「イエスは彼らを見つめて言われた。それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石になった』」とあります。この石は、祭司長や律法学者が「邪魔になる。用をなさない」と捨てた石です。その石が、隅の頭石、大黒柱の土台石のように、家を支えるものになったというのです。つまり、神の救いの出来事は人間の計算や知恵や計画とは違って、人間的な思いを遥かに越えた、人間には計りしれない出来事である。そのいう仕方で神の支配は生き続いているというのです。
旧約聖書の創世記からずっと問われている問題ですが、わたしたちの人生を支配するものは何かということです。現実は、神の支配を疑ってしまうほど理不尽と不条理に満ちています。罪と力が支配しているように見え、絶望させられます。しかし、真実は、この矛盾に満ちた世を支配しているのは神ご自身だというのです。ヨハネ福音書3章16節に「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とあります。神はひとり子イエスを十字架に明け渡してまで、世を救おうとされているというのです。この世がどんなに理不尽で、矛盾に満ち、不条理であっても、愛の神が支配している事実を明らかにしています。
 ローマの信徒への手紙8章37節に「これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしたちは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主イエス・キリストによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」とあります。どのようなことに出会っても、どのような境遇に置かれても、世の矛盾と不条理に打ち克つ神の愛を信じて受け入れ従っていきましょう。